あしたがくるまえに

真剣30代しゃべり場

ごはん

 

 

 

ドラマ「カルテット」第1話で、松たか子が卵かけごはんを食べるシーンがあった。
テレビかラジオか何かから流れてくるニュースの音声に耳をやりながら醤油を一度手に取ったけれど、結局ごはんにはかけないで卵だけがかかったごはんを食べる、というシーンだ。
文章にすると特に何とも思わないけれど、松たか子が演じるとこれがめちゃくちゃ怖い。撮り方もあるのかもしれないけれど、卵かけごはんを食べているだけで怖いって、ものすごい役者だと思う。なんというか、彼女の演技には説得力がある。

何年か前の「woman」というドラマでもこれと同じものを感じたことがあった。
このときは、田中裕子が黙って素麺を食べるシーンだった。勢いよく啜られる素麺の音になぜかゾッとして、その凄まじさに感動してしまった記憶がある。
松たか子も田中裕子も、2人とも、空っぽの中に詰め込めように、静かに何かが燃え上がっているように食事をしていた。

 

食べるという行為には、怒りや悲しみ、少し狂気を孕んだような感情をぶつけやすいのかもしれない。泣きながら食べる、怒りながら食べる、そういうシーンはドラマや映画でよく見ることがある気がする。

だけど、怒りながら食事をしている人を見たことはあっても、泣きながら食事をしている大人を実際に見たことはほとんどないように思う。もちろん、わたし自身も泣きながら食事をしたことはあまりない。
しかも、これについては空っぽになった悲しみの中に詰め込む食事ではなくて、悔しさに任せて苦しみながらの食事だったのでノーカンとする(やけ食い+涙も辛いっちゃ辛いけど )。

かなしくて泣くのにはパワーがいる。喜怒哀楽の中で、「哀」の涙が、一番心も体力も消耗してしまうしんどい感情だと思う。
「カルテット」第3話の松たか子演じる巻さんのセリフに「泣きながらごはん食べた人ことがある人は、生きていけます」というものがあった。言葉が自分の中にすとんと落ちるように、なるほど、と思った。
自分の感情なのに、どうしようもなくなるくらいの「最上級のかなしみ」を埋めるものって、きっと食事しかないのだ。もちろん助けにはなるが、誰かのやさしさなんかではどうにもならない。最後は自分の力だ。自分の力で何かを食べないと力は湧いてこないし、空っぽのままでは人は生きていけない。生きている限り、どんなに悲しくてもお腹は減るし、人間は孤独だ。
ドラマを観ていて思い出したけれど、ゲーテの言葉に「涙とともにパンを食べたものでなければ、人生の本当の味はわからない」というものもある。意味を噛み砕いたつもりでいた言葉だったけれど、なんだか、解った気になっていただけのように思えてきた。
人生の本当の味って、どんな味なのだろうか。


わたしは何を食べていても「美味しそうに食べるね」と言われて育ったし、実際おいしいと思って食べている。ただの違いのわからない女なのかもしれないけれど、自分にとって美味しいと感じるものしか食べていない。美味しいものたちに囲まれて、ぬくぬくと生きてきた。

わたしはまだ人生の本当の味を分かっていなければ、泣きながらごはんを食べたこともない。わたしの人生ってこれでいいのだろうか、なんて思う。だけど、思うだけだ。わたしは、これからも「これでいい」と自分に言い聞かせてやっぱりこのまま生きていくのだと思う。もしかしたら本当は、人生ってもっともっとおいしいのかもしれないけれど。

「いいよいいよ」って、松たか子がわたしの手も握ってくれたらいいのになって思う。