あしたがくるまえに

真剣30代しゃべり場

地獄でなぜ悪い

 

人生最速で時が流れている。

速い、速すぎる。この間きれいにクリーニングして冬物をタンスに詰め込んだところなのに、もう薄手のカーディガンが要る。成人してからここ10年はずっとこの感覚と闘いながら過ごしてきたように思う。

20代は自分がうまくいかないことを、流々と前を歩いていく友人と比べて落ち込むことがほとんどだった。SNSを開いては、恋人がいてどんどん美しくなっていく友人の毎日、ギラギラした商社の飲み会、兼ねてよりお付き合いしていた彼との結婚報告(これが続いたりする)を目にしては、自分だけが取り残された気分になった。自分だけが平凡でつまらない人生を送っていて、他人の人生は全て最高の人生に見えた。

少し見ないうちに、親友の子供が赤ちゃんから少年になっている。少し見ない間にひとつ年上の幼馴染がずいぶんと老け込んでいる。老衰で祖父母が死ぬ。特に25歳から28歳くらいにかけてはこの感覚をとてつもなく情けなく感じていた。「何もしていないのに時間だけが過ぎていく」という焦燥感が何をしてもついて回った。年を経るほどに自分自身の存在さえもがプレッシャーになって、いつか押しつぶされるようなどこか恐ろしい気持ちを抱えていたのだが、29歳から30歳になった今年は、ほとんどそれがなかった。やっと私は大人になりかけているのだと思う。自分と、自分の周りにいてくれる人たちが穏やかな気持ちでさえあれば、他人のことはほとんど気にならなくなった。別に状況は変わっていない。あくまで、あまり‟気にならなくなった”だけのことなのだけど。

人目を気にしてしか生きられなかった幼い20代だったのだと、振り返れば悔やまれる。ずっと自分に自信がなくて、人と比べることでしか自己肯定感を満たせなかった。そして、その自己肯定感は満たされないまま、iphoneを傍らに浅い眠りについていたような気がする。よく変な夢を見ていたのだが、最近めっきり見なくなった。

今になって思えば、私は華やかに見える友人たちの現在を、SNS上でしか知り得ない。たまにメッセージのやりとりがあるくらいで、だんだん疎遠になって、20歳の同窓会以来、大学卒業以来、会っていない友人の方が多いのだ。もしかしたら、本当に毎日が楽しくて充実しているかもしれないけれど、今の彼らが、本当はどんな気持ちで毎日を送っているかなんてわからない。わからないのに、勝手に私自身が彼らの送る人生を最高だと決めつけていた。もしかしたら、ものすごくつらいことがあったかもしれない、空虚を隠して楽しいことだけを選んで発信していたかもしれないのに。

人には人の地獄がある。そして、その地獄はほとんど語られることはないのだ。今だって、私は毎日、大なり小なり地獄を見ている。皆そうだ。私の地獄は、他人の地獄と比べられないし比べる必要がない。たったそれだけのことが、わからなかった。

 

今、一年間の浪人を経て、今年大学一年生になったばかりのいとこが悩んでいる。結果が揮わず、志望大学に入れなかった。大学の同窓生は皆バカに見える(私は全くそうは思わないし、いい大学だと思う)。高校時代の部活動のチームメイトは皆志望校に合格して、SNSを見れば皆最高の大学生活を送っているのに、自分は趣味もなく、リモートで講義を受け、サークル活動は禁止され、たった一人狭いワンルームyoutubeばかり見ている。ときどき、泣いて電話がかかってくるのだと叔父から連絡があった。

私は、10代のころ叔父にはものすごくお世話になった。音楽にのめりこみ「しっかり勉強してほしい」という親の願いを撥ね付け続けてどうしようもなくなっていた私に、叔父は音楽をたくさん教えてくれたし、私が拒否しない絶妙な加減で、勉強をすること、大学に進学することを促してくれた。父母より一世代若かった叔父は、私の救世主だった。

どうにかしてやりたいが親にはわかってやれないところが多い、きみになら話すかもしれない、なんとか話してやってくれないかと、叔父はずいぶんと疲れた声で言った。

数年ぶりにいとこに電話をかける。10歳も離れたいとこの姉ちゃんと話すのなんて嫌がられるのではないかと思っていたが、最近どう?悩んでるってちらっと聞いたけど…と切り出すと、受話器の向こうで不満があふれ出した。1時間と10分、止まることなく彼は話し続けた。コロナ渦で思い描いていた大学生活との乖離がそうさせたのだろう。丸みを帯びて優しい印象だった彼の声が、いつもよりずいぶんと尖って聞こえた。食事に行き顔を見ると、充実しておらず、彼自身もそう感じているのが手に取るように分かった。

彼に何かしてあげたいと思うけれど、おそらく難しいことだろう。私自身、最近になってやっとわかったことを、19歳の男の子に理解しろなんて無謀なことを言えない。周りを気にしないで自分のやるべきことをする、目線をもう少し先に向けて就活に向けて勉強する…そんなこときっと普通の19歳には無理だ。まだ大学入学一年目だ。強い意志がある人や、自分に自信が持てている大人にだって難しいことなのに。

せっかくの4年間を、少しでも楽しく過ごしてほしいと切に願う。そして、私と同じように鬱々とした感覚を持ちながら20代を過ごしてきた人って多いのかもしれない、と思う。もしそういう人がいたら教えてほしい。それをどうやって切り抜けてきたのか。

どんどん過ぎていく時間の体感速度は速くなる。

今年20歳になる彼の地獄はどんな地獄なのか想像する。彼の‟今の”時間が、少しでも心穏やかなものになるよう何かできることはないか、彼に伝わる言葉はないか、考えている。