あしたがくるまえに

真剣30代しゃべり場

やれない女

 

 

笑点をボヤーッと観ている日曜の夕刻。恥を忍んで聞きたいことがある。

めちゃくちゃセックスしたくなるときってない?

恥ずかしながら、わたしはある。恋人がいるときはまずそんなことないけど、いないときにはある。映画観るとか、食事とか、あと情緒とか愛情とかそんなものはどうでもいい。わたしは、別に愛がなくても、好きな人でなくても、生理的に無理でなければセックスはできる。(浮気する人間はどんなに仕事が出来ようが金を持ってようが容姿が美しかろうが人としてダメだと思うので浮気は絶対しない)

 

こういう時、みんなどうしてるんですか。マジで知りたい。言わないだけで、女にもフツーに性欲ってあるもんだと思うんですよ。ただ、わたしはセフレがいたこともないし、あまり冒険をしたことのないどっちかといえば真面目な人間だと思うんですね。

というわけで、先月初めて、そういう目的のみで某出会い系アプリをダウンロードしてみた。何をやってるんだと言われるかもしれないが、彼氏と別れ多少ヤケクソだった、という理由もあるので大目に見てほしい。

ただ、田舎で出会い系をやるのはめちゃくちゃリスキー。死ぬほどリスキー。どれくらいリスキーかというと、3回右にシュッとすれば高校の同級生が登場し、5回右にシュッとやれば浮気している彼氏が出現するくらいです。It's a match!

まあ変な奴はめちゃくちゃ多いけど、フツーにまともなやつもいる。軒並みセックスしたいだけの奴だから、後腐れなく遊びたいのであれば好都合だと思う。

 

というわけで、マッチした人の中から2、3会話をして一番まともそうな人を1人選び、やりとりを始めた。すぐLINEに移行しようと言うので交換したら、ゴリゴリにフルネーム。Facebookで出てくるし、出身大学も職場も全部分かった。怖いもんはないんか。

少しやりとりした後、わたしは友達や彼氏が欲しいのではないしタダ飯を食いたいのでもデートがしたいのでもない、1回ヤレりゃいい、という旨の話をしてみた。めちゃくちゃスムーズにそれに乗ってきたし、その提案をしたら「エロ(笑)」とか送られてきたりした。アプリでは全く写真を載せていないのに顔写真を要求したりしなかったし、めちゃくちゃサクサクッと話が決まったのでびっくりしたが、まあ腹を括って会った。28歳、人生で一番冒険している。バカすぎる。

約束の日、仕事でかなり遅れてしまったので、先に飲んでいてもらった。店に入ると、清潔感のある紺色のスーツを着た男の子がカウンターで飲んでいた。アプリで見た写真そのまま。肩をポンと叩くと「お〜!?○○さん!?遅くまでおつかれっす〜」。めちゃくちゃいい笑顔だ。さわやか!あと紺色のスーツを着ている男は信用できる。みんなチャラいし、それなりに遊んでいる。よっしゃこれは当たりを引いた、たぶんそんなに不自由してないし、後腐れもないと思った。

思ったのだが、そのさわやかボーイ、1軒目を出た瞬間に「いや〜楽しいわ〜。俺ホテル行くのやっぱやめときたい」と宣うのである。激しく動揺して「エッ!?なんで!?!?」と叫んでしまった。まるで大学1年夏、勝負をかけたデート終盤の童貞である。立ち話でホテルに行く行かないの話をするメンタリティはなく、2軒目に入りその理由を聞いた。彼は県外から転勤で田舎に来ている人で友達が全くいないらしく、久しぶりに大層楽しかったと。会ってみたらめちゃくちゃ面白い子だったから、これはワンナイトで終わるのは絶対もったいない、もっと仲良くなりたい。とまあ、こういう風に滔滔と説くのである。やらない営業マンはただの営業マンだ。いらぬ弁だけが立つ。

聞きながら悟る。あ〜〜〜〜〜〜これはダメだ、絶対やれない。知っている。こうやってわたしは今まで何人もの異性と友達になってきてしまったのだから。こいつとも友達にしかなれん。やれたかも委員会、満場一致で「やれたとはいえない」の札が上がる。めちゃくちゃテンションが下がってしまい、もういいや!と思ってその日はめちゃくちゃ酒を飲んだ。酒を飲み、瀕死のテンションを蘇生し続けた。

そのあと、週2ペースで誘われ飲みに出かけ、案の定めちゃくちゃ仲良くなった。知り合いの店にまで連れて行かれてしまい、常連さんに紹介されるという友達ルートに進んだ。もうこれは絶対にやれない。

金曜に飲んでいたとき、そのアプリで知り合った他の女の子とはどうしてんの?という話をしてみた。これまでに4人と会ったが、みんな1度会ってそれからは会っていないらしい。「連絡たまにくるけど、まあみんなあんまり仲良くなれへんかったから会ってないわ〜」。

 

おい、こりゃ一晩は仲良くやっとんがな!!!

バッキバキに心が折れてしまい、速やかにアカウントを閉じ、アプリは削除した。おそらく致命的に向いてない。そうしている今も、笑点を観ていたら「空気階段とかが家おもしろすぎて最高」というLINEが来て落ち込んでいる。やりたかっただけの男と友達になってしまい、お笑い好きにさせ、お笑いの話をしている。

なぜ飯要員にしかなれないのか。やれる女とやれない女の差は何なのか。「セックスしたいだけ」という恥じらいも情緒もない女はダメなのだろうか。

それとも会ってみれば致命的に色気がないか、生理的に抱けない何かがあるのだろうか。

その道のプロの人、教えてくれ。

このブログ読んでるあんたたちの中にはわりとおるだろ。カッコつけずに教えてください。

 

 

 

 

 

 

秋によせて

 

今朝、5時すぎに目が覚めた。酔っ払って開けっ放しで寝た窓から入ってきた、雨の予感を孕んだ湿り気のある冷たい風に起こされた。昨晩は飲みすぎた。記憶をなくす手前で、ベッドの上に脱ぎ捨ててあった厚手のスウェットを着て眠ったのに寒くて、秋だなと思った。

ちなみに、齢28にして、自宅で記憶をなくすまで飲むのは初めてだった。


お盆に「休めないし残業時間は毎月80時間、もうこんな生活嫌だ」と、ふと転職しようと思い立ち、人生で初めてハローワークに行った。

経歴を書いたシートを愛想のいい相談員に渡すと、県内ではわりと名の知れた企業の求人シートを何枚も渡してくれ、条件のよい二社に履歴書と職務経歴書を郵送、応募する形になった。書類が通過し、二度の面接を経て、二社ともよい結果をもらった。どちらも、毎月の勤務時間は今より80時間短く、年収は100万円上がるという。条件提示の場で、ボーナスの額を聞いて「マジですか」と言いそうになった。やりたい仕事でがむしゃらに働くことじゃなく、やりがいと収入のバランスを見比べて働くことが、人生を豊かにするひとつの手段でもあると知った。

そもそも、日本人ってどうしてこんなにも働かなくてはいけないのか。みんな死ぬほど働いて、それでもお金が貰えないのに、もうじき、100円のモノを買えば10円の税を納めなくてはいけなくなる。くたびれたスーツのおじさんが、コンビニで、増税前にとカートンでメビウスを買っているのを見ると切ない。禁煙に成功していてよかった。あんな風にカートンでタバコを買わなくて済む。


やりがいのため、スキルを上げるための仕事をやる生活に耐えきれなくてドロップアウトしてしまったから、これからはやりたいことをやるため、欲しいものを買うために働く生活が始まる。これまでの仕事で培った何かを活かせるかもしれない仕事だし、それも悪くないと思っている。これから、いっぱい貯金して、一人暮らしも始めて、やりたいこともたくさんやろうと思う。

この仕事を始めてから、得たものが本当にたくさんあった。だけど、できなかったことがそれ以上にあった。こないだ宮本が暴れてる紅白見て笑ってたと思ったのに、もう秋なんだよ。信じられない。思い出に残ることなんかなーんもしてないの。

あと、Whitneyの新譜がめちゃくちゃ良くて、久しぶりにバイナルを買った。大好きなものなのに、ほんのちょっとだけ針を落として聴く心のゆとりさえ、ずーっとなかったんだなって思った。

 

 

 

 

サヨナラ勝ち

 

熱い熱いすり鉢の真ん中で、高校球児たちが心踊る闘いを繰り広げている。今朝は地元の出場校が強豪校に勝利して、社内のスタッフは仕事はそっちのけで、テレビの前で色めき立った。

「こんなはずではなかったなあ」と思うことが最近よくある。子どものころの想定では、25歳には幸せな結婚をして、28歳になればお母さんになって、今は子育てをしているはずだった。自分が同じところで足踏みばかりしているような残念な大人になっていることなど、つゆ知らず。子どもってマジでいいよね何も知らなくて。

そもそも、28歳という年齢がこんなにも近い将来だなんて考えてもみなかったし、とにかくずっとずっと先のことだとしか思えなかった。情けないことに、今の自分は幼いころに思い描いていた大人の自分とは全く違う。毎日はさほど楽しくなく、誰とでも分けあえる趣味なんてない。やっと彼氏ができたって、その人のことを大好きで大好きでしょうがないわけではなかったり、気がつけば浮気をされて別れたりなんかしている。

ここ何年か「こんなはずではなかった」と思う日々が続いている気がする。何があったでもない、誰に負けたでもないのに、負け犬のような気分。どうやっても過去の自分に勝てない。毎日早起きして走り、好きなことに夢中になり、よく食べ、よく眠り、誰かに恋をしていた、あのころの健やかで明るいわたしはどこかへ行ってしまった。


もがくわたしを追い越すように、ひとり、またひとりと友人が結婚してゆく。妬ましさがゼロかと言えばそうではない。妬みという感情はたしかにわたしの中にある。だけど、わたしは彼女たちの結婚を心から喜んでいるし、幸せを願っている。これも本当だ。だけど、お呼ばれした式が終わった帰り道はどこか寂しさがあり、不安にまみれている。ウエディングドレスを着て微笑む友人が、知らない大人に見える瞬間がある。わたしは2年前にお呼ばれ用に買ったタイトなドレスを1人で着られない。母に背中のファスナーを上げてもらっている。きっと、此の期に及んでまだ大人と子どもの間で宙ぶらりんでいるのだと思う。

いちばんの親友が、この秋に結婚式を挙げる。ドレスは着ずに、振袖を着ようと思っている。

 


「サヨナラ勝ちってあるし。うちらまだ負けてへんし」結婚式の帰りに、酔っ払ったギャルの友人がこう言ったことがある。そのときは、ドラマチックでも何でもない平凡な人生にサヨナラ勝ちなんてないだろ、と思った。きっとない。ちなみに、そのギャルの友人も先月結婚した。鬼盛りのポニーテール、キラキラのティアラ。大きなバックリボンのフワフワとしたウエディングドレスが本当によく似合っていた。彼女らしくて、本当にハッピーな式だった。

彼女の言う通り、悲しいことにまだ試合は終わってない。終わりそうにない。長い長い9回ウラ、ツーアウト。崖っぷちといったところの正直ほぼ負け。まあ、逆転サヨナラとは言わないけど、1点くらい入れたいところだなと思う。

 

 

 

 

前髪

 

土日の出勤が続いたので、平日が休みになった。ゆっくり寝てやろうと思ってたのに、泣きわめいてるみたいな豪雨の音で目覚めてしまった。スマホの画面を見ると、まだ6時すぎ。梅雨とはいえ、休みの日まで叩き起こすみたいに降るのは勘弁してほしい。

二度寝しようとしたけど目がすっかり冴えてしまって、惰性でまずいコーヒーを淹れて、Netflixで火曜に配信されたテラスハウスを見た。

学生時代に見ていたころは、ほとんどの住人が自分より歳上だったのに、今の住人たちはほとんど、自分よりかなり歳下になってしまっている。この番組に出演する人たちは、意外とみんなしっかりしていて、バイトとかしながら夢追ったりして、かなりつまらないことで争いが起きたりして、人間らしくて本当に魅力的だなあと思う。今期はどうなるか楽しみ。


ひとしきりテラスハウスを見たり撮りためた番組を見たあと、11時過ぎになってなんとなく思い立って、昼から美容室に行った。ハイライトの色が抜けてキンキンになった汚い髪を真っ黒に染めた。毛先を揃えて、ヘッドスパしてトリートメントして、2万5000円もかかった。大して変わらないのに。ただ、何年振りかに前髪を切った。切ったはいいけど、ずっとワンレンで横分けにしてたから、パッカリと真ん中で割れてしまってめちゃくちゃダサい前髪になった。

ずっと同じ分け方をしていたら、皮膚が伸びて、そこでパッカリ分かれてしまうようになるらしい。だから、毎日ちょっとずつ分け目を変えることが大事なんだと、美容師がドヤ顔で説明してきた。同じところで分けるのが楽なんだけど、それじゃ新しい髪型にチャレンジしたとき、思った通りにキマらなくなっちゃうわけですね。そんなこと知らなかった。ワンレンにしてる時点で教えといてほしかったよ。

伸びた皮膚はなかなか元に戻らないんだって。いつかは戻るらしいけど、時間がかかるよね。Don't worry!

 

 

 

 

ぞめき

 

最近、日中は暑いから誰かがフロアの窓をすかして仕事をしている。日が落ちるとまだ少し寒い。

19時を過ぎると太鼓と鉦の音がが聴こえてくる。"ぞめき"。これが始まると「ああ、夏がやってくるなあ」と思うけど、毎年お盆に向かってあっという間に走り抜けてしまう。

20時に仕事を片付けて会社を出る。仕事が終わっていなくても、帰る。今日はもう切り上げた。会社の方針でそうなった。まあそれでも私は家族の中で1番帰宅するのが遅い。入浴も当然1番最後。

むせ返るような熱気の脱衣所でTシャツを脱ぐと、消えかけて黄色くなったキスマークがある。目立たなくなってきてホッとしている。うちの家族は、やおら脱衣所に入ってきたり、風呂場のドアを無言で開けたりするから生きた心地がしない。

 


キスマークってつけたすぐは鮮やかな赤い色や紫色をしてるけど、日を追うごとにちょっと青あざになって、緑っぽくなって、浅葱色のような汚い黄色になる。汚くなるけど、消えてゆくほどにほっとする。週末にぽつぽつんとついて、週末にちょうどみんな消える。そしてまた週末につく。これがルーティーンの1つになってしまうのが嫌だなと思う。

どんどん保守的になって、どんどん面白みのない女になってしまっている気がして、嫌だなと思う。決して自分が面白い女だと言っているのではないけど、ゆっくり時間をかけて丸くなっていくのじゃなくて、剥がれ落ちるみたいに尖っている部分が削れてゆくのは嫌だ。

 


けど、全部嫌だなと思うけど、思うだけなんです。28歳だし、おばちゃんになってきたのかなあ。ブレブレ。

みんな、とりあえず盆は徳島に遊びに行くのがいいよ。阿波の"ぞめき"は、ずっと昔から今もかっこいい。ブレない。世界一かっこいい二拍子。

 

 

 

 

 

 

漂流教室

 

樹木希林が死んだ。
大杉漣も死んだ。
歌丸も死んだし、さくらももこも死んだ。

 

今年はこれでもかというほど、死んではいけない人が死んだ。

当然ながら、死んではいけない人も死ぬのだなあ、今死んではいけない人こそ今死ぬのだなあ、と、改めて思う。非道徳的な発言だとは思うが、死んでいいような人間もたくさんいるのに、死んではいけない人間ばかりが死んでしまう。

 

平成が終わる。

死ぬタイミングがいいのだか、悪いのだかわからない。だけど、きっと、まだ生きていた方がよかった。全く赤の他人が「死んでほしくなかった」と思うのだから、親族をはじめ周囲の人間や、一度でも関わりのあった人間は「あなたに死んでほしくなかった」と、ただ純粋に思い、嘆くだろう。

 

 

 

8月の終わり頃、友人が死んだ。

成人式のすぐあとくらいに病気になったと聞いていた。大学を卒業してからここ何年かはずっと入院していて、せっかく徳島に戻ってきたのだから会いに行こう、行こうと思いながらも、仕事が終わってからでは面会時間にも間に合わず、LINEでたまに連絡をとった。
会えば元気そうだったから、まだ死なないと思っていた。こんな早くに死ぬと思っていなかった。彼女にもわたしにも、まだまだ、まだまだ時間があると思っていた。

彼女はまじめで、おとなしい子だった。10代前半で出会って10年以上の付き合いがあった。
どんなに腹が立つことがあっても、誰の悪口も言わない子だった。わたしが誰かを悪く言うと困ったように笑っていた。
その笑顔はわたしの性格の悪さを封じ込め、このあいだ見た映画の話や、好きな男の子の話をさせた。彼女といると、わたしは誰の悪口も言わなくて済んだ。

 

 

彼女が死んだと連絡がきて、お通夜に行った。
何年も付き合いがあったのに、わたしはお母さんにしか会ったことがなく、彼女のお父さんに会ったのは初めてだった。

「今日の日まできちんとご挨拶もできずすみません。彼女には本当にお世話になりました」と言うと、お父さんは「ありがとうございます。いつも雑誌を読んでいます。高校生のときからずっと憧れだったんです。仲良くしてくれてありがとう」と言い頭を下げた。お母さんもやってきて、わたしの肩に手を置き「忙しいのにありがとうね」とだけ言って「ほんまにきれいになって」とつぶやくように発して、私の肩を上下にさすった。お母さんの優しくすべる掌から、燃えて消えそうな悲しみと、やり場のない悔しさを感じた。

 

彼女はよく両親にわたしの話をしていて、わたしの携わった雑誌を毎月買い、読んでくれていたという。知らなかった。純粋に嬉しかった。

 

だだっ広い畳の部屋の奥に敷かれた、真っ白な布団で眠っている腫れた土色の顔を見ると、なんだか胸が苦しくて、その顔にどうしても触れることができなかった。
涙も出なかった。なにも伝えたかったことは言えなかったし、大人として、友人として、彼女の両親になにも言えなかった。

次の日の仕事は休まず、告別式には出なかった。

 

 

先日、樹木希林の葬儀で、娘の也哉子さんが読んだ挨拶の全文を読んだ。
文学的で、それでいて、誰の心にもストンと落ちるような、わかりやすく、だけど純粋な思いの詰まった挨拶だった。

眠っていた彼女と、その傍に座っていたご両親と、弔問客に静かに頭を下げていたお兄さんご夫婦の姿を思い出して涙が出た。
全く関係のない人の死を悲しむ言葉を聞いて、彼女が死んでから、はじめて、彼女が死んだことで泣いた。

 

今月も、毎月のように雑誌が出る。
彼女を取り巻く周囲の人間以外は、なにも変わらず時間は過ぎてゆく。わたしも、何もなかったかのように同僚とバカ話をして笑い、取材に行き、しんどいしんどいと言いながら原稿を書く。

読んでくれていてありがとうと思う。
毎日やめたい、やめたいと思いながら仕事をしているけど、彼女がわたしの書いた文章を読んでいてくれたことは嬉しかった。だけど、告別式にも行かずせっせと書いたつまらない文章に、果たして何の価値があるのだろう、とも思う。自分の文章に価値を見出せる日が来るのをじっと待つのはしんどい。しんどい中で力がついていくというのも、しんどい。クリエイティブはしんどい。しんどいことばかりだけど、まだがんばれる。これだけ紙の時代は終わったと言われても、雑誌を読んでいてくれる人は、少なくともまだいた。

也哉子さんのスピーチは、ほんとうに素晴らしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

魔女宅

 

 

 

わたしは『魔女の宅急便』という映画作品が大好きだ。何回観てもいい。
こないだ金曜ロードショーでやってたのを録画で観て、やっぱりいいよな〜〜となったので、過去の殴り書きしてた下書きにちょっと加えて。

 


魔女の宅急便』の主人公のキキは作中で、基本的には明るく活発なキャラクターとして描かれてはいるけれど、思春期の少女としてのリアルな「闇」の部分も多く描かれているように思う。
キキは、彼女の存在そのものや、自分行動によって返ってくる周囲の人間からのリアクションを異常に気にする傾向がある。これは、現実の思春期の少女としてはよくあることだ。周囲からの自分への評価に対して悩み、もがいて大人になっていくのが思春期というものだと思うから。
宮崎駿は、この思春期特有の「闇」の部分をキキというキャラクターの成長の過程でリアルに描き出している。そして、この「闇」の部分を乗り越えてゆくことは、「通過儀礼」としての役割を果たしており、キキが大人になっていく成長物語のストーリーが構成されている。
キキは、周囲から「いい評価」を得られることを善しとしていて、それを常に求めている。これは至極当たり前の感情ではあるけれど、その感情にキキは振り回され、それゆえに「闇」の部分が色濃く見え始めるようになっていく。

 

キキが独り立ちをして、コリコの街に到着してすぐ、その片鱗は見え始める。冒頭からここまでのキキは、自分が「魔女である自分」を少なからず誇りに思っていて「魔女としての自分」に無意識的なアイデンティティを見出しているように見える。
ところが、コリコの街でキキはそのアイデンティティは打ち砕かれることになる。誰からも大して歓迎されることはなく、ましてや空を飛ぶことを注意され、ホテルに泊まるにも身分証明を求められ路頭に迷う。コリコの街ではキキが「魔女」という肩書きは何の役にも立たなかった。これが、キキにとって1度目のアイデンティティの喪失。

出鼻をくじかれ途方に暮れているところで、キキはグーチョキパン店のおソノさんと出会う。パン屋のお客様の忘れ物を届けるという「初仕事」をすることで、キキはこの街に来て初めて評価される。この場面で、キキの中では「魔女である」という肩書きだけのアイデンティティの崩壊を経て「魔女として人の役に立つ」ことでのアイデンティティの確立が無意識的になされている。
そうしてキキは「魔女の宅急便」を始めるのだが、ここでキキには変化が生まれる。住み込みで宅急便の仕事を始めたキキの言葉に「私、空を飛ぶしか能がないでしょ?」というものがある。これはキキがここで、自分の能力と向き合えるようになり「魔女である」という無力な誇りから抜け出したものだとわたしは思っている。
このあと、キキは絵描きのウルスラとも出会い、初めて正式に依頼された仕事を成功させ「いい評価」を得られたことで喜ぶのだが、しかし、ここから順風満帆な生活が始まるのかといえばそうではない。ここから描かれ始めるのはキキというキャラクターの持つ、思春期の少女の「闇」の部分。
ある日、仕事で訪れた老婦人の家で、キキは孫娘の誕生日を祝うためのニシンのパイ作りを偶然手伝うことになった。このときのキキはとても元気にひたむきに、業務内容から外れた仕事に取組み「いい評価」を得ようとする。パイは無事完成し、老婦人から感謝されながら、豪雨の中を急いで届けるが、ここで出会う孫娘の態度はキキの心をひどく傷付ける。孫娘の冷たい態度と「このパイ嫌いなのよね」というリアクションが、キキの中でひとつの評価となってしまったから。
落ち込んでしまったキキは招待されていたパーティーにも間に合わず、豪雨で濡れたまま眠ったために高熱を出す。
キキは精神的に非常に打たれ弱く、ナイーブ。これも、思春期の少女のひとつの特徴であると言える。そして、このころからキキの魔法に陰りが見え始める。

風邪をひいてから落ち込んでいる様子のキキを励まそうと、オソノさんはトンボのところへお使いを頼む。そこでキキはトンボと2人で自転車に乗り、不時着した飛行船を見に行くのだが、トンボの友人たちがやってきて「一緒に飛行船の中を見に行こう」という誘いを受ける。
ここでもキキは素直になれず、またトンボに冷たい態度をとってしまう。ここでのキキの冷たい態度は、トンボに対する嫉妬と、新しい人間との関わりを拒絶してしまう感情とが入り混じったものではないだろうか。ここでも思春期の少女像が現れているのだが、この時、キキはトンボに対して恋愛感情が芽生えていたと言えるだろう。恋をしたことで、13歳の少女はいっそう不安定になっていく。その後、キキはジジの声が聞こえなくなっていることに気付く。そして、相次いで彼女は箒で空を飛べなくなってしまう。陰りを見せていた魔法の力が、ここで完全に消えてしまうのだ。飛べなくなったキキは「魔女の宅急便」を一時休業し、思春期最大のスランプに陥ることになる。

 

キキの魔法の力はなぜ急速に失われてしまったのか。これに関しては先行研究やインターネットでの意見交換などがされていて、数多くの説があるのだけれど、その中に、キキが飛べなくなった原因はキキの「少女から女性への変化の過程」であり「初潮」のメタファーであるという説がある。
これはトンボへの恋心の現れからも読み取ることができるだろう。恋をすることで少女は大人へと近付き始める。
先ほども述べたように、思春期の少女は不安定であり、特にキキはそういうキャラクターとして描かれている。もしも「初潮」のメタファーであるならば、少々生々しい考察にはなるけれど、初潮を迎えたことによる身体的苦痛(PMS)を経て、キキは精神的に不安定になり、トンボに急に冷たい態度をとったりする点にも現れているとも考えられるかもしれない。だけど、ここまで宮崎駿が考えていたのかと言われれば、少し考えすぎで、強引な説のような気もしてくる。
キキの「魔法の力」は全て失われてしまったわけだけれど、ここで重要視したいのは、空を飛べなくなってしまったことよりも、ジジの声が聞こえなくなってしまったという点。キキにとってジジは、幼いころからずっと一緒に過ごしてきた一心同体のような存在として描かれている。ジジを人間のキャラクターに置き換えて考えてみれば分かりやすいかもしれない。
これまでずっと、同じ環境で同じように育ってきたキキとジジだけれど、ここで初めて、自分が恋をした相手への態度で差が生まれているのである。キキは、恋をした相手であるトンボに対して意に反してうまく接することができずに溝を生んでしまう、いわばまだまだ子どもということ。
対してジジは随分と大人だ。最初こそ、お高く留まっている美しい白猫に対して敵意を露わにしていたものの、結果として、自分が惹かれた白猫とうまく距離を縮め、恋を楽しんでいる。これは、キキと比べてジジの方が先に大人への階段を登ってしまったということだと思う。キキとジジ、一心同体の思春期の「闇」を先に抜けたのはジジだった。

 

 

キキは、空を飛ぶ魔法と、ジジと話す能力の2つの魔法の力を失った。特に、ジジとのこれまでの一心同体のような関係が失われたことで、2度目のアイデンティティの喪失を経験することになった。
ここで、キキはまた新たなアイデンティティを見出すため、変化、成長せざるを得なくなる。ここで彼女にとって重要な役割を果たすのが、画家の少女ウルスラ

ここで、キキとウルスラの関係性について考えてみる。

◎キキ
13歳となり、「魔女の掟」とされる独り立ちの日を迎えた活発な少女。キャラクターデザインとしては、ショートカットで小柄な活発な少女として描かれており、赤い大きなリボンがトレードマーク。作品冒頭では薄緑色のワンピースドレスにサーモンピンクのエプロンを着用していたが、独り立ちしてからは「魔女の掟」に則り、黒いワンピースドレスしか着用しなくなっている。箒を利用して空を飛ぶことだけが、魔女としての彼女の唯一の取り柄である。自分の特技である箒での飛行を利用して宅配業務を行う「魔女の宅急便」を開業し、様々な経験を通じて悩みながらも成長していく姿が描かれている。
作中でのキキの声は声優の高山みなみが担当している。

ウルスラ
森の中の小屋で絵を描くことに没頭する画家で、19歳の少女である。キャラクターデザインとしては、少女というよりも、ある程度大人になった女性的な体型で描かれているが、女らしいというわけではない。(少々中性的に描かれているところもあるかもしれない。)いつもタンクトップにショートパンツという軽装である。ロングヘアーを高い位置で結んでポニーテールにしている。キャラクターデザインの印象の通り、明るく活動的であり、潔さのある少女として描かれている。キキが宅配中に落としてしまった荷物を見つけ、宅配の手助けをしたことがきっかけでキキと仲良くなり、お互いの家を訪ねあうほど仲良くなっていく。「ウルスラ」という名前は公式設定であるが、劇中では1度も名前で呼ばれていない。
作中でのウルスラの声は、キキと同じく声優の高山みなみが担当している。

 

ウルスラは、アイデンティティを失い宙ぶらりん状態のキキに、新たなアイデンティティ確立の手助けをする大切なキャラクターだ。なぜなら、ウルスラもまた、キキと同じように思春期の「闇」を抜け出してきた経験があるから。ウルスラは、悩めるキキを家に泊め、眠る前にキキと話すのだが、このシーンでのウルスラは、キキの思春期の「闇」の部分の代弁者のように見える。

「私さ、キキくらいの時に絵描きになろうって決めたの。絵描くの楽しくってさ、毎日寝るのが惜しいくらいだったんだよ。それがね、ある日、全然描けなくなっちゃった。描いても描いても気に入らないの。それまでの絵が、誰かの真似だって分かったんだよ。どこかで見たことがある!ってね。自分の絵を描かなきゃ、って。」
「魔女の血、絵描きの血、パン職人の血。神様か誰かがくれた力なんだよね。おかげで苦労もするけどさ。」

これはウルスラの語りでもあり、キキの心の叫びでもある。この時のウルスラとの会話中で、キキは「魔女は血で飛ぶんだって」という発言をしている。おそらく、キキは「魔女の血」と向き合うことを恐れ、その血脈から逃避してしまいたくなっていたものだと考えられる。しかし、ウルスラの言葉を聞いて、誰もが持つ才能ゆえの苦労を自分に近い感覚で分かち合い、理解してくれるウルスラに、キキは自らを見たのだと思う。
そして、この2人のキャラクター設定で最も印象的なのは、キキとウルスラの声優が同じだということ。2人の声は、声優の高山みなみが当てている。2人のキャラクター設定は全く別人のようにも思えるが、この「声優が同じ人物である」という事実が、2人を重ね合わせる手助けをしているように思える。ウルスラというキャラクターは、キキが思春期の「闇」を乗り越えて成長した姿であり、キキそのものでもある。ウルスラは、アイデンティティを喪失し、自己を見失ったキキに道しるべをしてくれる、第2のキキ(第2の主人公)であるといっても過言ではないキャラクターだろう。


ここからは、物語の終わりとキキのアイデンティティの確立へと向かってゆく。
ウルスラからのアドバイスを得た後、キキは、ゆるやかにアイデンティティを確立し、物語は飛行船からのトンボの救出の場面を経てエンディングへと向かう。
トンボを救出するにあたり、キキが使用したのは今まで使ってきた箒ではなく「デッキブラシ」という新しいアイテム。
キキが、箒ではなくデッキブラシを使用したことには、キキがコリコの街の人間としての自己を確立する手助けの意味がある。このデッキブラシはコリコの街の人間の物であり、新しい人間たちとの関わりを持つ第一歩を表したアイテムである。キキは、デッキブラシを使ってトンボを救出することで、思春期の「闇」の部分から完全に抜け出すことに成功する。この、デッキブラシを使用してのトンボの救出の描写は、過去の自分との決別をはかり、新しい自己を確立するとともに、コリコの街の人々からも受け入れられたというものだと思う。
魔女の宅急便」のエンディングの映像では、物語のその後のキキの姿が描かれている。ここでもキキは、箒ではなくデッキブラシを使っている。この物語のなかでの箒は、キキの「魔女である」ことへの自己認識のメタファーだと考えられる。箒を捨て、デッキブラシを使うようになったキキは、「魔女である」ことにこだわり続けた自己からの逸脱に無意識のうちに成功している。
そして、キキは、物語の最後に、トンボの救出という物語最大の「通過儀礼」を乗り越えたことで、コリコの街の人々たちとも打ち解け、思春期の「闇」の部分を抜け出すことに成功したといえる。キキは、過去の自分と決別したことで思春期の少女から少し大人へと近付き、知らず知らずのうちの自分自身の変化によってコリコの街に馴染み、人々と打ち解けあうことで、新たなアイデンティティの確立に成功したのかもしれない。
そして、「落ち込むこともあるけれど、私、この町が好きです。」というエンディングのラストのキキのセリフからも読み取れるように、おそらく、キキはこれからもまだまだ悩み続けることだろう。しかし、このセリフからは、確実なキキの心境の変化が読み取れる。キキは、コリコの街でのアイデンティティを確立し、大人へと成長する一歩を踏み出せたことで初めて「この街が好き」と言えるようになったのでは、と思う。

キキのキャラクターは、思春期の少女の葛藤を如実に描き出した、非常に不安定で変化の多いもの。これは「キキのアイデンティティの確立までの道のり」として見る「魔女の宅急便」において重要なはたらきをしていた。
そして、もうひとりのキキとして見るウルスラのキャラクター像は、13歳の少女キキが「通過儀礼」としての様々な困難を体験することで、思春期の「闇」の部分を抜け出し、アイデンティティを確立していくという『魔女の宅急便』の物語のストーリーに必要不可欠なものだったと、わたしは思う。(だからわたしはウルスラが大好きで、何年もLINEのアイコンにしてる)

魔女宅はじめ、ジブリ映画を観るといつも、こんな風にもっと純粋にいろんなことに出会えてたはずなのになあと思う。大人になるっていいか悪いかわからんなあと思う新年。