あしたがくるまえに

真剣30代しゃべり場

漂流教室

 

樹木希林が死んだ。
大杉漣も死んだ。
歌丸も死んだし、さくらももこも死んだ。

 

今年はこれでもかというほど、死んではいけない人が死んだ。

当然ながら、死んではいけない人も死ぬのだなあ、今死んではいけない人こそ今死ぬのだなあ、と、改めて思う。非道徳的な発言だとは思うが、死んでいいような人間もたくさんいるのに、死んではいけない人間ばかりが死んでしまう。

 

平成が終わる。

死ぬタイミングがいいのだか、悪いのだかわからない。だけど、きっと、まだ生きていた方がよかった。全く赤の他人が「死んでほしくなかった」と思うのだから、親族をはじめ周囲の人間や、一度でも関わりのあった人間は「あなたに死んでほしくなかった」と、ただ純粋に思い、嘆くだろう。

 

 

 

8月の終わり頃、友人が死んだ。

成人式のすぐあとくらいに病気になったと聞いていた。大学を卒業してからここ何年かはずっと入院していて、せっかく徳島に戻ってきたのだから会いに行こう、行こうと思いながらも、仕事が終わってからでは面会時間にも間に合わず、LINEでたまに連絡をとった。
会えば元気そうだったから、まだ死なないと思っていた。こんな早くに死ぬと思っていなかった。彼女にもわたしにも、まだまだ、まだまだ時間があると思っていた。

彼女はまじめで、おとなしい子だった。10代前半で出会って10年以上の付き合いがあった。
どんなに腹が立つことがあっても、誰の悪口も言わない子だった。わたしが誰かを悪く言うと困ったように笑っていた。
その笑顔はわたしの性格の悪さを封じ込め、このあいだ見た映画の話や、好きな男の子の話をさせた。彼女といると、わたしは誰の悪口も言わなくて済んだ。

 

 

彼女が死んだと連絡がきて、お通夜に行った。
何年も付き合いがあったのに、わたしはお母さんにしか会ったことがなく、彼女のお父さんに会ったのは初めてだった。

「今日の日まできちんとご挨拶もできずすみません。彼女には本当にお世話になりました」と言うと、お父さんは「ありがとうございます。いつも雑誌を読んでいます。高校生のときからずっと憧れだったんです。仲良くしてくれてありがとう」と言い頭を下げた。お母さんもやってきて、わたしの肩に手を置き「忙しいのにありがとうね」とだけ言って「ほんまにきれいになって」とつぶやくように発して、私の肩を上下にさすった。お母さんの優しくすべる掌から、燃えて消えそうな悲しみと、やり場のない悔しさを感じた。

 

彼女はよく両親にわたしの話をしていて、わたしの携わった雑誌を毎月買い、読んでくれていたという。知らなかった。純粋に嬉しかった。

 

だだっ広い畳の部屋の奥に敷かれた、真っ白な布団で眠っている腫れた土色の顔を見ると、なんだか胸が苦しくて、その顔にどうしても触れることができなかった。
涙も出なかった。なにも伝えたかったことは言えなかったし、大人として、友人として、彼女の両親になにも言えなかった。

次の日の仕事は休まず、告別式には出なかった。

 

 

先日、樹木希林の葬儀で、娘の也哉子さんが読んだ挨拶の全文を読んだ。
文学的で、それでいて、誰の心にもストンと落ちるような、わかりやすく、だけど純粋な思いの詰まった挨拶だった。

眠っていた彼女と、その傍に座っていたご両親と、弔問客に静かに頭を下げていたお兄さんご夫婦の姿を思い出して涙が出た。
全く関係のない人の死を悲しむ言葉を聞いて、彼女が死んでから、はじめて、彼女が死んだことで泣いた。

 

今月も、毎月のように雑誌が出る。
彼女を取り巻く周囲の人間以外は、なにも変わらず時間は過ぎてゆく。わたしも、何もなかったかのように同僚とバカ話をして笑い、取材に行き、しんどいしんどいと言いながら原稿を書く。

読んでくれていてありがとうと思う。
毎日やめたい、やめたいと思いながら仕事をしているけど、彼女がわたしの書いた文章を読んでいてくれたことは嬉しかった。だけど、告別式にも行かずせっせと書いたつまらない文章に、果たして何の価値があるのだろう、とも思う。自分の文章に価値を見出せる日が来るのをじっと待つのはしんどい。しんどい中で力がついていくというのも、しんどい。クリエイティブはしんどい。しんどいことばかりだけど、まだがんばれる。これだけ紙の時代は終わったと言われても、雑誌を読んでいてくれる人は、少なくともまだいた。

也哉子さんのスピーチは、ほんとうに素晴らしかった。