あしたがくるまえに

真剣30代しゃべり場

どっちやねん

 

 

以前、何かのバラエティ番組で松山ケンイチが「結婚してから他人の目が気にならなくなった。正直家族以外どーでもいいっすね」と発言していた。
その番組を見ながら、家族ができることでそんなに変わるものなのか、と思った記憶がある。

 

先日、母と一緒に父の病院へ行って、帰りに病院近くの大きめのスーパーで買い物をした。
野菜も果物も高い。さほど美味しそうでもないリンゴが1個198円。仕方なく、その中から大きくて見た目の綺麗なものを選んで買う。
果物や野菜を選りながらカートを押して歩いていると、ダルダルのTシャツに、短くてよれよれのハーフパンツを履いてビーチサンダルをつっかけた男性と、皺の目立つロングワンピースを着て髪をシニヨンにまとめた、化粧っ気のない女性が手を繋いで買い物をしているのが目に止まった。
その2人だと気付くのに少しかかったが、彼らは、わたしたちが高校生の頃、誰もが憧れていたオシャレな先輩カップルだった。
声をかけるかちょっと迷って、なんとなく通り過ぎようと決めたとき、女の先輩の方がわたしに気付いて名前を呼んだ。2人ともやっぱり気さくで素敵な人たちだった。最近ご結婚されたらしい。


少し話して2人と別れた後、母がカートを押しながら小声で聞いてきた。

「さっきの誰?」

「高校のときの先輩カップル、憧れてた」

そう答えると、母は2人のことを全く知らないのに「ふーん、なんかガッカリやね」と言うのだ。なんでよ、と言いながらも若干ドキッとしてしまった。
確かに、わたしはガッカリしていた。誰もが羨むおしゃれカップルだった2人が、生活感丸出しの夫婦になっていたからだ。
だけど、どんなにわたしがガッカリしても2人の幸せには全く関係ない。これが結婚だ。他人なんてどーでもいいっすね、なのである。


母は、たまたまいつもより濃いメイクだったわたしの顔を見て「自分の家族ができたら誰に何をガッカリされてもええけど、今はいつもそうやってちゃんとお化粧してオシャレしとき。自分の知らんところでガッカリされてたくないでしょ」と意地悪そうに笑った。
なるほど、確かに、綺麗なのに越したことはない。果物も野菜も綺麗なのが選ばれるもんな、汚いすっぴんよりは化粧してる方がいいのかな、という結論が自分の中で出た。ところがだ。
「ま、薬使ってないキュウリの方が美味しいんやけどね」と言いながら、母はまっすぐでツヤツヤのキュウリをカートに入れていた。
どっちやねん、という気持ちになった。
マジでどっちやねん。

 

 


この記事なんの曲にしよかなって考えてて久しぶりにこの曲聴いて、そこからあややをずっと聴いてるんやけど神ですね。ハロプロ最高。

 

 

 

 

 

不倫

 

 


ふりん【不倫】
( 名 ・形動 ) [文] ナリ 
道徳に反すること。特に、男女の関係が人の道にはずれること。また、そのさま。 「 -の恋」 「 -な関係」 「我孫を坊様ぼつちやまの嬢様のと。-千万な尊号を奉りて/二人女房 紅葉」
大辞林 第三版』(三省堂

 

あなたのことはそれほど」というW不倫のドラマが始まるので、コミックを読み返している。中学時代の同級生が再会したことで始まってしまう不倫の話だ。とにかくいくえみ綾作品独特の、人間の屈折した嫌な部分が出まくっている作品だと思う。
登場人物全員どこかおかしくて、この作品に出てくる誰にも共感なんてできない。だけど、わたしの知らない結婚後の世界での話だから、もしかしてこれがリアルなのかもしれない、とも思わせられる。
結婚って何だろう、好きって何だろう、親になってまで誰かを好きになることなんてあるのだろうか。守るべきものを捨てる、もしくは捨てさせてしまうリスクと隣り合わせの恋に、価値なんてあるのだろうか。
わたしは自分が未婚者だから、正直既婚者同士の不倫は全くもってよく分からない。
だけど、未婚者が既婚者をすきになってしまうケースって、言わないだけで結構あると思う。わたしも、恋までとはいかなくとも「恋愛対象として素敵」だと思う人の半分は、既に結婚して誰かのパートナーになっているからだ。わたしには不倫をしてしまう人たちの気持ちの全ては解らないけれど、漠然と、きっとしんどいものなのだろうとは思う。
既婚者を好きになることは自由だ。それだけなら誰も咎めることはできないし、他人からやめろと言われてやめる必要もないとわたしは思っている。だけどそれは、自制ができるときまでの話だ。
歯止めが効かなくなったそのとき、その美しい恋は無残に砕け散り、不倫という底なし沼にズブズブと沈んでゆく。そして、世間からは立派なクズ、またはゲスの称号が与えられる。おめでとう。


「なぜ不倫がいけないのか」と言われると、説得力のあることを言えなくて困る。わたしが不倫を悪だと思う理由は子どもじみていて「自分がされると嫌だから」「結婚は法律で取り決められた契約だから」というだけだから。
最近、世間は不倫にやたら厳しくて、不倫が発覚したらその人間を徹底的に叩きまくる。
まあ間違ってはいない。けれど、わたしは不倫をしているというだけでその人をクズだとか最低の人間だとか、そういう風に思ったことはない。ただ、その想いを口に出して、行動に移してしまう醜い行為だけを、罪なことだと思う。
もしも自分が選んだ一生のパートナーが知らないところで他人を愛していたなら、そして、それを隠されていたなら、めちゃくちゃ悲しいに決まっている。子どもがいればなおのことだろう。それに、きっと不倫をしている方も、されている方も徐々に疲れていつか潰れてしまう。現実は汚い。ドラマや映画や小説みたいに美しいわけがない。不倫の恋には、皆が幸せになれる結末は用意されない。消耗して、消耗して、消耗し尽くした先には誰かの不幸しか待っていない。

 

あなたのことはそれほど」の主人公、美都は、中学時代からの親友に不倫を否定されたとき、涙しながらモノローグでこう語る。
「知らないくせに 知らないくせに 知らないくせに!動物で何が悪い 未来がなくて何が」
未来がない。なんて辛い恋愛だろう。それでも不倫をしている人は皆、ほんの少しの幸せや刹那的な安らぎのために心を痛めている。
不倫だって恋だ。せっかく誰かを好きになったのに、不倫だなんて人道に背いたことのような嫌な呼ばれ方をする、その恋が可哀想だと思う。
ほんとうに可哀想だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

男女間の友情

 

 

 

先週末、喫茶店で遅めの昼食を摂っていると、隣に座った男女の会話が聞こえてきた。声のデカい2人はそれぞれ飲み物を頼み、フルーツタルトをシェアしていた。
最初はカップルだと思っていたけれど、会話を聞くとそうではなかった。男性には恋人がいるようで、その恋人の愚痴に惚気をちょうどいい具合に織り交ぜながら話していた。女性の方は惚気のターンになると分かりやすくつまらなそうにして媚び、それに対して男性の方も満更でもなさそうだった。彼はソース顔の美形だった。
お会計をしていると「はやく彼氏作ればいいのに」という男性の声が聞こえてきて、こいつはとんでもねぇと思いながら店を出た。

  

「男女間の友情は成立しない」という人がいるけれど、わたしはそうは思わない(まあ友達と言っても色々あるし、各々の基準なのでここからは完全にわたしの価値観での話になる)。
非常に少なくはあるけれど、わたしにも、恋愛感情ではなく大切に思っている異性の友人がいる。脆くて成立しにくいものだとは思うけれど、異性だというだけで友情が全く生まれないなんてことは絶対にない。ハナから「自分には異性の友達がいないし男女間の友情は成立しない」という人に対して、自意識のせいで可能性を狭めて勿体無いのでは、と感じてしまうこともある。もちろん「異性の友達がいない」と言われてそりゃそうだろうなと納得できる人もいるけれど。

 

例えば、わたしの親友、Hちゃんには男友達が1人もいない。彼女は色気のバケモンである。
とてもかわいい顔をしていて、おっぱいが大きくて、頭がいいのに自分を絶妙なバカ、もしくは不思議ちゃんぽく見せるのが上手い。そして、すごく尻が軽い。もしもわたしが男だったなら、一番抱きたいタイプなので、友人関係などとうに崩壊している。
わたしは彼女のことをとても好きだし、信頼もしている。唯一無二の大切な人だけれど「女に嫌われる女」を地でいきすぎていて、たまに、こいつはなんなんやと腹が立つこともある。言わずもがな女友達は少ない。

男版Hちゃんみたいな人もいるだろう。
例えば、今をときめく俳優・菅田将暉である。もちろんわたしは彼の性格なんて知らないけれど、外から見たスペックはわかる。彼はきっと自分をよく解っているのだろう。「二階堂ふみだけを除いて男女間の友情は成立しない」と公言している。
まあそりゃそうだろうよと思う。菅田将暉と近しい距離になったとして、彼の性格がクソじゃない限り、友達のポジションに大人しく収まって我慢できる女がいるだろうか。いや、いない。少なくとも、わたしは確実に無理だ。友達になろうとすら思わないかもしれない。
一晩だけでもお願い致しますの段である。

 

やはり、男女間の友情には異性としての魅力(性的な魅力)が関係しているのだと思う。
わたしは自分の男友達に対してリスペクトがあるし、いい男だと思ってこそいるけれど、色気は全く感じていない。きっと、わたしを友達だと思ってくれている男性に聞くと同じことを言うと思う。友達になるだけの共通点があり、それに加えてその点が一致して初めて成り立つのだから、男女間の友情は奇跡なのかもしれない。

ただ、その友情は確かに存在するのだけれど口に出してしまえばたちまち嘘っぽくなる。特に、他人からすれば「友達とか言ってるけどこいつらほんとかよ…」と思うこともあるし、恋人がいればその友情が喧嘩のタネになることもある。だけど、それは当人たちにしか理解し得ないのだからその関係に口を挟むのは無粋だ。

だけど、無粋でもこれだけは言わせてほしい。
喫茶店で見かけたあの男女も、菅田将暉二階堂ふみも、十中八九キスはしとる。下手すりゃ寝とる。
ちなみに、Hちゃんは二階堂ふみに似ている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ごはん

 

 

 

ドラマ「カルテット」第1話で、松たか子が卵かけごはんを食べるシーンがあった。
テレビかラジオか何かから流れてくるニュースの音声に耳をやりながら醤油を一度手に取ったけれど、結局ごはんにはかけないで卵だけがかかったごはんを食べる、というシーンだ。
文章にすると特に何とも思わないけれど、松たか子が演じるとこれがめちゃくちゃ怖い。撮り方もあるのかもしれないけれど、卵かけごはんを食べているだけで怖いって、ものすごい役者だと思う。なんというか、彼女の演技には説得力がある。

何年か前の「woman」というドラマでもこれと同じものを感じたことがあった。
このときは、田中裕子が黙って素麺を食べるシーンだった。勢いよく啜られる素麺の音になぜかゾッとして、その凄まじさに感動してしまった記憶がある。
松たか子も田中裕子も、2人とも、空っぽの中に詰め込めように、静かに何かが燃え上がっているように食事をしていた。

 

食べるという行為には、怒りや悲しみ、少し狂気を孕んだような感情をぶつけやすいのかもしれない。泣きながら食べる、怒りながら食べる、そういうシーンはドラマや映画でよく見ることがある気がする。

だけど、怒りながら食事をしている人を見たことはあっても、泣きながら食事をしている大人を実際に見たことはほとんどないように思う。もちろん、わたし自身も泣きながら食事をしたことはあまりない。
しかも、これについては空っぽになった悲しみの中に詰め込む食事ではなくて、悔しさに任せて苦しみながらの食事だったのでノーカンとする(やけ食い+涙も辛いっちゃ辛いけど )。

かなしくて泣くのにはパワーがいる。喜怒哀楽の中で、「哀」の涙が、一番心も体力も消耗してしまうしんどい感情だと思う。
「カルテット」第3話の松たか子演じる巻さんのセリフに「泣きながらごはん食べた人ことがある人は、生きていけます」というものがあった。言葉が自分の中にすとんと落ちるように、なるほど、と思った。
自分の感情なのに、どうしようもなくなるくらいの「最上級のかなしみ」を埋めるものって、きっと食事しかないのだ。もちろん助けにはなるが、誰かのやさしさなんかではどうにもならない。最後は自分の力だ。自分の力で何かを食べないと力は湧いてこないし、空っぽのままでは人は生きていけない。生きている限り、どんなに悲しくてもお腹は減るし、人間は孤独だ。
ドラマを観ていて思い出したけれど、ゲーテの言葉に「涙とともにパンを食べたものでなければ、人生の本当の味はわからない」というものもある。意味を噛み砕いたつもりでいた言葉だったけれど、なんだか、解った気になっていただけのように思えてきた。
人生の本当の味って、どんな味なのだろうか。


わたしは何を食べていても「美味しそうに食べるね」と言われて育ったし、実際おいしいと思って食べている。ただの違いのわからない女なのかもしれないけれど、自分にとって美味しいと感じるものしか食べていない。美味しいものたちに囲まれて、ぬくぬくと生きてきた。

わたしはまだ人生の本当の味を分かっていなければ、泣きながらごはんを食べたこともない。わたしの人生ってこれでいいのだろうか、なんて思う。だけど、思うだけだ。わたしは、これからも「これでいい」と自分に言い聞かせてやっぱりこのまま生きていくのだと思う。もしかしたら本当は、人生ってもっともっとおいしいのかもしれないけれど。

「いいよいいよ」って、松たか子がわたしの手も握ってくれたらいいのになって思う。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

あの頃

 

 

 

金曜ロードショーで「耳をすませば」を観た。最後に観たのはいつだったか憶えていないけど、そのときより格段に胸を打たれてしまった気がする。

 

人間は、大人になると世界がかなり広がる。
十代の頃にできなかったことが当たり前にできるようになって、やろうと思ってできないことはかなり少なくなる。中高生の頃に描いていた大人なんかメじゃないくらい、大人は楽しい。

毎日好きなものばかり食べても怒られないし、お酒だって飲める。欲しいものは自由に買えるし、好きなものを咎められることなんてない。夜遅く家に帰ってもいいし、休みの日は1日中寝ていたっていい。友達と海外へ旅行にだって行けるし、恋人と泊まりがけでディズニーランドに行ってもいいのです。最高!大人最高!!

でも、何か物足りない。

こんな風に思ったことがある大人は、きっとわたしだけではないはずだ。こんなにも充たされた大人の世界は、何故だか物足りない。

それはきっと、できるようになったことがある分だけ、もう二度とできなくなってしまったこともあるから。そして、大人たちは皆それを知っているからだと思う。

 

この映画に出てくる子どもたちは皆大人びている。現実にこんな中学生はそういないが、やっぱり十代の熱量は凄い。忘れてしまったあの頃の感覚を思い出させながら、恥ずかしくて見ていられないような気持ちにもさせてくれる。恋愛にしても、夢への情熱にしても。若いって本当に無敵だ。

夢にまっしぐらだったり、誰かにどうしようもなく惹かれてしまったりする、あの健やかな気持ちってどんな風だっただろう。金曜の夜からずっと考えている。こんなこと無意味かもしれないけど、立ち止まって過去の自分を振り返ることってそんなに悪くないと思う。

大人にも、いい車で休日の昼下がりにまったりドライブするより、明け方に自転車二人乗りで急な坂登りたい日があってもいいよね。

 

ここから完全に趣味の話だけど、わたしはずっと聖司くん派だった。大抵の女はそうだと思う。
聖司くんは見た目も雰囲気も大人っぽくて、人とはちょっと違う夢を持っていて本当にかっこいい。性格も、一筋縄ではいかない、ちょっと裏をかいてくるタイプだ。魅力的で、なかなかいる男の子じゃない。

だけど、そのスペック故に聖司くんはちょっと危うい気がしてくる。大人になったとき、女タラシ系に傾いても、めちゃくちゃ一途系に傾いても、たぶんどっちでも最悪だ。手に負えない。

そうすると、ここで健康的で真っ直ぐな杉村の良さがグッと出てくる。聖司くんのようになんとなく好意を匂わせながらジワジワ攻めていくタイプではない。小細工ナシだ。
イケメンでもないし、本当に平凡だけど、付き合ったら絶対浮気しないタイプだと思う。聖司くんが雫を訪ねて教室に来た時の杉村の顔は本当にグッとくる。

あと、大人になったとき、杉村みたいなタイプって大概、めちゃくちゃ良くなっている。

 


 

 

 

名前

 

 


昨日、久しぶりに結構長い夢を見た。内容ははっきり覚えてないけれど、ちょっと前に好きだった人が出てきて、ちょっと前みたいにわたしの名前を呼んでいた。

わたしの名前はめちゃくちゃ平凡だと思う。

苗字も、名前も、その組み合わせも、ものすごく平凡。だけど、わたしは自分の名前がわりと好きだ。めちゃくちゃちょうどいい名前だから。

キラキラでもなく、シワシワでもない。見た目とのギャップでからかわれることもないし、性格と違いすぎることもない。ちょうどいい名前をつけてくれた親に感謝している。

 

昨今の日本人には、その名を聞くと己の耳を疑ってしまうような名前の子どももいる。だけど、それは名前を付けた両親の意図だし、それも運命だ。どんな名前で、周りがどう思おうと、本人は気に入っているかもしれないし、好きな人にその名前を呼ばれれば嬉しいはず。他人が口を出すのはナンセンスかもしれない。

ただ、名前負けだけはちょっと恐ろしい。自分は何も悪くないのに相手をガッカリ、最悪ドン引きさせてしまうことだってある。

だけど「名前負け」があるなら、「名前勝ち」というものもあるかもしれない。

 

わたしが中学生の頃通っていた塾に、中川先生という英語の先生がいた。中川先生は控え目に言って、ものすごい美人だった。

上品な茶色に染められた長い髪はツヤツヤしていて、そんなに濃いメイクではないのに、肌は透き通るように白かった。鼻筋が通って目はぱっちり。スタイルがよくて、オシャレで、いつもいい匂いがした。そして、美人なのに全く気取らない気さくな人だった。

ところが、そんな中川先生の下の名前を誰も知らなかったのだ。一緒に英語の授業を受けていたのは女の子ばかりで、みんな中川先生に憧れ、先生のことを何でも知りたがった。

だけど、中川先生は何度聞いても「恥ずかしいから教えない」と言って下の名前を教えてくれなかった。

わたしたちが中2の半ば頃、中川先生は英語の先生を辞めることになった。今考えると、寿退職だったのかなあと思う。わたしは、そのとき初めて中川先生の下の名前を知った。

中川先生は、「和」と書いて「かず」と読むシンプルな名前だった。先生曰く、自分の名前が地味で男の子のようでずっと嫌いだったそうだ。当時、先生の名前を「すごくオシャレでかっこいい名前なのに」と思ったことをよく覚えている。

これって「名前勝ち」ではないだろうか。平凡だったり地味な名前でも、人の魅力で名前まで魅力的に見えてしまうなんて、相当クールだと思う。

 

名前について色々と考えてしまったけど、突拍子もないものでない限り、名前なんてまあそこまで人生には関係ないと思う。平凡でも華美でも、その人が有無を言わさず素敵な人物ならその人生にケチはつかない。

もし自分に子どもが生まれたらどんな名前を付けるのだろう、なんてたまに思ったりする。まあ、できる予定のない我が子の名前について考える前に、わたしにはもっとたくさんやることがあるけど。

もう名前を呼ばれることのない人の夢とか見てないで、街コンでも行くとかね。

 

 

 

 

 

 

 

 

2017

 


ブログを書いてみる。
新年明けて2週間とちょっと。
年明け早々、ダメージを食らうようなことは山ほどあるのにいいことはまだひとつもない。

グニャグニャのメンタルを鍛えようと読んだ、百田尚樹「鋼のメンタル」は本当に気休めにしかならなかった。年始からこんなスタートで今年の自分は大丈夫なんだろうか、と考えてしまう。

 

 

去年の夏、父が病気をした。
生きるか死ぬかだった。
長い手術を何度も受けて、父の心と身体はみるみるうちに弱ってしまった。

たぶん、父はずっと自分を責めている。タバコとお酒。自分の不摂生で病気になったことで、家族にも職場にも迷惑をかけてしまったと悔んでいるのだと思う。

毎晩ビールを3缶、仕上げは芋焼酎のお湯割りが父の定番だった。弟と3人で、冗談を言い合いながらよく一緒にお酒を飲んでいた。

父は、飲めない訳ではないのに、大好きだったお酒を一滴も飲まなくなった。冗談もあまり言わなくなって、代わりに、薬を飲んではため息を吐くようになった。

地獄みたいな夏だった。病院で母が泣いているのを見るとわたしも涙が出た。悲しくて出た涙ではなく、自分が情けなくて出た涙だった。

病気について調べたり、担当医の先生や栄養士の先生の話を聞いて料理をしたり、間接的に協力することはできても、直接母を励ますことができなかったからだ。母に何度も抱き締めてもらって生きてきたのに、わたしには母を抱き締めることができなかった。

ここぞという時に「大丈夫だよ」のひとことも言えない、親を守れない、お子ちゃまサイズの器しか持ち合わせていない。それが今のわたしだった。

 


友達やまわりの人たちがどんどん結婚して、頼もしい親の顔になっていく。親になれるって、立派なことだ。

25歳。親になっても決して早すぎることはない年齢だと思う。わたしも、いつまでもこのままというわけではいけないはずだ。

基本的にわたしの生き方は何に対しても受け身だ。そのくせ、文句だけは一丁前、いや、人一倍言う。見た目は大人、中身は子ども。恥ずかしいことに、それをうまく隠せているつもりでいた。そして、まだそれが通用していた部分があった。今までは。

わたしはまだまだ、誰よりも自分が一番かわいい。きっと、大人からすれば未熟な人間だということは一目瞭然だろう。そんな今、やっと自分が大人になっていくことに向き合えつつある気がしている。精神的にもそうだし、物理的にもそれを感じることが多くなったから。

メイクをするとき、ファンデーションがうまくのらない朝がある。疲れが1日では取れない。腰回りについた贅肉がなかなか落ちない。

両親が急に歳をとった。年の割に若いと思っていた母の顔にも皺が目立つようになった。父の髪は根元からどんどん白くなった。やつれて小さくなった身体は、元に戻らない。

 


きっともう、いいことがやってくるのを待っている受け身のままではダメなのだ。自分の足でしっかり立って、自分で手に入れなければ、きっとこのままわたしはずっと大人になりきれない。そんなのでは困る。

だけどわたしは、落ち込んだり悩んでしまうことをやめない。やめられない。だからこそ、それでも踏ん張れるタフな大人になってゆきたい。

今年の目標。