あしたがくるまえに

真剣20代(後半)しゃべり場

ときめきは少々

 

 

そのカフェは、職場に1番近くてチーズケーキがとてもおいしい店。同時に、女たちが集まる場所でもある。18時の開店から10分ほど経つと、仕事終わりでばっちり化粧直しをしたであろう女の子が、皆1人でやってくる。どの子もどの子も、まぶたのアイシャドウの大振りなラメが薄暗い照明の下で輝いている。キラキラなんてもんじゃなく、ギラギラと。これはオシャレではない。気合いなのだ。「私が1番かわいいぞ」という気合いなのである。

こうして、1人ずつ1人ずつ、カウンターに女の子が増える。 彼女らは皆頬杖をついて、料理をする1人の男を見つめていた。

いらっしゃい、と声をかけられると心底嬉しそうに、そしてちょっぴり恥ずかしそうに微笑む。小学生の女の子のように、初めて恋を知った少女のように。場の空気は『りぼん』の巻頭カラー作品さながら。だけど実は、トーンを貼りまくったパステルカラーの見開き1ページの中で、それぞれの物語の主人公が水面下でのマウンティングを繰り広げている。

 


カウンターの中に立つその男は、整った顔こそしているけれど、別に背が高いのでもなく、特別オシャレなのでもなく。フツーの男だった。だけど、1分話せばそれが分かる。

この男、モテる。


半年前に一度仕事で行ったきり訪れていなかったその店に入ると「いらっしゃい。あれ?来てくれたことあります?あ、違うわ。すんません。えー、◯◯さん」と、こちらが口を開かないうちに一気に喋る。そして、手招きしてカウンターに座るよう促した。「自分でも名前覚えててびっくりしたっすよ。今日カヌレ焼いたからよかったら食べてってくださいよ」と、丸い目を細めて笑った。

そしてこの日、出してくれたカヌレをつついている20分ほどのうちに、彼は料理をしながら私の連絡先を聞き出した。某三世のごとく華麗だった。そして、その日の夜に連絡がきた。

「◯日空いてます?ご飯食べましょう」

すごい。もう食事に行くことは決められている。日にちだけの問題だ。ちなみに、この、ご飯食べましょう、でいうところの「ご飯」とは、夜飲みに出るのではなかった。昼間からの自宅メシだった。よく知らない男性の家に入るという危うさが、ランチという健全さで相殺される。なにより、自宅に誘われたからと言って怖気付いたり勘繰ったりするには、もう私は歳をとりすぎてしまっている。はい、と返事をするしかない。見事だ。

 


自宅近くまで迎えに来てくれた車に乗り、家へ向かった。築年数は一桁であろう新しいマンションだった。名前のわからない、でっかい観葉植物がある部屋にはこれまたでっかい窓があって、陽の光がこれでもかってくらい射し込んでいて、ポカポカとして気持ちよかった。

部屋にはたくさんのレコードが面出しで並んでいて、その中から彼が選んだのは、キャロル・キング。「この前店で好きって言ってたから昨日持って帰ってきた」と流しながら、テキパキと料理を始めた。「普段は適当なのしか食べないんだよ」と出されたのは本当にフツーのオムライスで、店で出しているオシャレな料理の数々とはかけ離れていて驚いた。本当にフツーのオムライスで、フツーの味だった。


2人分のコーヒーを淹れて、レコードを取り替え、テーブルに向かい合わせで座る。1時間くらいの間たくさん話したけど、彼はわたしの仕事の話を全くしなかった。させなかったのかもしれない。純粋にすごいと思った。ほぼ会話したことのない異性と話すとき、仕事の話以外で場をもたせることができるのって、たぶんスキルでしかない。


彼はコーヒーを飲み終わると、送りますよ、と言い上着を羽織った。わたしはあまり積極的な人間じゃないし、恋愛は苦手だと思うけど、それでも我慢できなくなって「彼女いないんですか?」と聞いた。聞いてしまった。

彼は「いたらやばいでしょ」と答えてじっとわたしの顔を見た。なにも言えなかったけど、心の中で、やばいです〜〜〜〜〜!!!!!と思った。


うちに着く少し前のコンビニで車を停めて、温かいお茶を買って飲んだ。陽が落ちてくる車の中で折坂悠太の『平成』を聴いた。「いいよね」と言う彼に、いいですねと返事をした。

車を降りると、彼は私の髪を手でとかし、耳にかけた。だけどそれだけだった。キスするでもなく、ハグするでもなく握手をして別れた。

 

それからしばらく会わなくて、おととい、同僚と一緒にランチに行くと「平日休みあったり、夜でもよかったら今度一緒に映画観ません?」と彼は言った。ハイ、と答えてしまった。同僚は色めき立ち、社内で噂された。

あのカウンターに座っている女の子たちは、もしかしてこうやって増えていってるのかもしれない。ていうか絶対そうだ。私は、恐らく自分だけじゃない男に対して、自分の時間を割いて、そしてすべてがイエスになってしまうことがとても怖い。だから、たぶん、彼とはこれ以上どうにもならない。でも、キスとかセックスとかで身体が得るときめきじゃなくて、心がときめくようなことがあってよかったと思う。

ここ2〜3年は生理周期がすごく正確になって、ほぼ乱れがなくなったんだけど、この時ばかりは生理が1週間早く来た。どんだけエストロゲン出とんねん。なので今年は恋愛もしようと思う。仕事ばっかりに振り回されるのはよくない。ときめきは少々で、生産性のあるやつ。

 

 

話は全然変わるけど、こないだジェットストリームが始まるまで原稿を書いてた日、もう集中力もなにもなくなったとき、ラジオでこの曲が流れてきて持っていかれた。聴く側に何も考えさせない歌詞。何も考えなくても、寄り添ってくれる歌詞。こういう歌詞を書けるアーティストは本当にいい。今になってわかる、こういうアーティストのすごさ。安室ちゃんのbaby don't cryとかも聴いてみてほしい。無理しない程度にがんばろって思える、泣きたい女への応援歌だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

漂流教室

 

樹木希林が死んだ。
大杉漣も死んだ。
歌丸も死んだし、さくらももこも死んだ。

 

今年はこれでもかというほど、死んではいけない人が死んだ。

当然ながら、死んではいけない人も死ぬのだなあ、今死んではいけない人こそ今死ぬのだなあ、と、改めて思う。非道徳的な発言だとは思うが、死んでいいような人間もたくさんいるのに、死んではいけない人間ばかりが死んでしまう。

 

平成が終わる。

死ぬタイミングがいいのだか、悪いのだかわからない。だけど、きっと、まだ生きていた方がよかった。全く赤の他人が「死んでほしくなかった」と思うのだから、親族をはじめ周囲の人間や、一度でも関わりのあった人間は「あなたに死んでほしくなかった」と、ただ純粋に思い、嘆くだろう。

 

 

 

8月の終わり頃、友人が死んだ。

成人式のすぐあとくらいに病気になったと聞いていた。大学を卒業してからここ何年かはずっと入院していて、せっかく徳島に戻ってきたのだから会いに行こう、行こうと思いながらも、仕事が終わってからでは面会時間にも間に合わず、LINEでたまに連絡をとった。
会えば元気そうだったから、まだ死なないと思っていた。こんな早くに死ぬと思っていなかった。彼女にもわたしにも、まだまだ、まだまだ時間があると思っていた。

彼女はまじめで、おとなしい子だった。10代前半で出会って10年以上の付き合いがあった。
どんなに腹が立つことがあっても、誰の悪口も言わない子だった。わたしが誰かを悪く言うと困ったように笑っていた。
その笑顔はわたしの性格の悪さを封じ込め、このあいだ見た映画の話や、好きな男の子の話をさせた。彼女といると、わたしは誰の悪口も言わなくて済んだ。

 

 

彼女が死んだと連絡がきて、お通夜に行った。
何年も付き合いがあったのに、わたしはお母さんにしか会ったことがなく、彼女のお父さんに会ったのは初めてだった。

「今日の日まできちんとご挨拶もできずすみません。彼女には本当にお世話になりました」と言うと、お父さんは「ありがとうございます。いつも雑誌を読んでいます。高校生のときからずっと憧れだったんです。仲良くしてくれてありがとう」と言い頭を下げた。お母さんもやってきて、わたしの肩に手を置き「忙しいのにありがとうね」とだけ言って「ほんまにきれいになって」とつぶやくように発して、私の肩を上下にさすった。お母さんの優しくすべる掌から、燃えて消えそうな悲しみと、やり場のない悔しさを感じた。

 

彼女はよく両親にわたしの話をしていて、わたしの携わった雑誌を毎月買い、読んでくれていたという。知らなかった。純粋に嬉しかった。

 

だだっ広い畳の部屋の奥に敷かれた、真っ白な布団で眠っている腫れた土色の顔を見ると、なんだか胸が苦しくて、その顔にどうしても触れることができなかった。
涙も出なかった。なにも伝えたかったことは言えなかったし、大人として、友人として、彼女の両親になにも言えなかった。

次の日の仕事は休まず、告別式には出なかった。

 

 

先日、樹木希林の葬儀で、娘の也哉子さんが読んだ挨拶の全文を読んだ。
文学的で、それでいて、誰の心にもストンと落ちるような、わかりやすく、だけど純粋な思いの詰まった挨拶だった。

眠っていた彼女と、その傍に座っていたご両親と、弔問客に静かに頭を下げていたお兄さんご夫婦の姿を思い出して涙が出た。
全く関係のない人の死を悲しむ言葉を聞いて、彼女が死んでから、はじめて、彼女が死んだことで泣いた。

 

今月も、毎月のように雑誌が出る。
彼女を取り巻く周囲の人間以外は、なにも変わらず時間は過ぎてゆく。わたしも、何もなかったかのように同僚とバカ話をして笑い、取材に行き、しんどいしんどいと言いながら原稿を書く。

読んでくれていてありがとうと思う。
毎日やめたい、やめたいと思いながら仕事をしているけど、彼女がわたしの書いた文章を読んでいてくれたことは嬉しかった。だけど、告別式にも行かずせっせと書いたつまらない文章に、果たして何の価値があるのだろう、とも思う。自分の文章に価値を見出せる日が来るのをじっと待つのはしんどい。しんどい中で力がついていくというのも、しんどい。クリエイティブはしんどい。しんどいことばかりだけど、まだがんばれる。これだけ紙の時代は終わったと言われても、雑誌を読んでいてくれる人は、少なくともまだいた。

也哉子さんのスピーチは、ほんとうに素晴らしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近のこと

 

 

「自分の書きたいように自由に文章が書ける」ということがどれだけ尊いことか今の今まで知らなかった。
情報誌の編集・ライターをやるようになってからというもの、毎日のようにそれをひしひしと感じている。

情報誌のライターは物書きではない。はっきり言ってサービス業だ。
情報誌のライターにおいて何が大事かといえば、読み手が何を欲しているかを考えて文章を書くこと。マジにそれだけと言ってもいいくらいかもしれない。
情報だけは絶対に間違えてはならない。
文学的な表現や情緒などいらない。
難しい表現はしてはいけない。
ただ、忠実に物事を分かりやすく伝えるだけでいい。
コラムなどは除くけど、料理や商品、店舗紹介などであれば、ライターの個性を出した文学的で趣のある記事よりも、ある程度のバカが読んでも理解できる記事の方が善しとされる世界。
一見自由度が高いように見える仕事だけど、自由度は死ぬほど低い。自由にやらせてもらえることなど、限りなく無に近い。


こうなると、自分の書きたいものを発散する場ってのが全然ないわけで。フラストレーションが溜まること溜まること。
だけど最近、それを書くまでに必要な下積みかもしれない、と思うようになってきた。
情緒的・文学的な表現にも頼らず、個人的な感情にもフタをして、冷たく硬い、鋼鉄のような文章が書けるようになったとき、もう怖いものって何もない気がする。
きっとどんな文章も書ける。
面白くない、本当に面白くない文章を静かに書き続けながら、いつかアウトプットできる時まで、インプットを続ける。

 

 

話は変わるけど、チャットモンチーの最後のMステ出演を観た。
チャットモンチーを聴き始めたのがもう10年以上前のことだから、彼女たちが歳をとるのは当然だけど、やっぱり歳をとったなと思う。

ガールズバンドのひとつの時代を築いたのは紛れもなく彼女たちで、現代の音楽シーンに「チャットモンチーみたいなガールズバンド」というジャンルを作ったと言っても過言ではないかもしれない。
スリーピース時代以降をきちんと聴いてこなかったけど「今のチャットモンチー」を隠さない、2人体制での曲作りもライブも、オルタナティブを貫く彼女たちらしいままだと思った。逆に今のスタイルはそれはそれで彼女たちらしくてこっちが好きな人も多いのではないかと思ったくらい。
だけど、ここでひとつ区切りをつけるというのは間違っていない選択だとも強く感じるようなステージだった。

解散すると聞いて残念に思わなかったり、心からお疲れさまと思えるバンドって、今まであんまりなかった。チャットモンチーチャットモンチーとしてがんばった。とにかくがんばったのだと思う。
もう限界だ、終わっても何ひとつ悔いが無い!っていうところまでがんばり倒すことって難しくて、わたしはそれができたことは一度もない。たぶん、できたことがある人ってあんまりいない。

彼女たちは、Mステという大きな舞台での「完結」を、あんなに爽やかに演出してくれた。

解散でも、完結でも、死ぬのでも、別れるのでも、なんでもそうだけど終わり方って、その人の姿が出る。
彼女たちと彼女たちの曲はきっと、この先もずっと今のまま、伝説のガールズバンドとして鮮やかに輝き続ける。

 

 

 

 

 

 

 

creep

 

 

 

終わりです。

新年早々こんなこと言いたくはないけど、わたしはもう、簡単に誰かを好きになれなくなったのかもしれない。こんな自分が情けない。

 

少し前から付き合い始めた人と別れた。
正直、彼とのことは自信がなかったのでまだあんまり友達にも話していなかった。彼は、イベントごとに会えなくても文句ひとつ言わなかったし、趣味が合わなくてもなるべくわたしに合わせてくれようとした。とてもいい人だと思う。
だけど彼を好きじゃなかった。いつかとても好きになるかもしれないけど、今、好きじゃなかった。

今までとても優しく、わたしの言うことを全て受け入れてくれていた彼の別れ際の言葉は攻撃的で、初めて彼の本音を聞いた気がした。わたしが適当な場所を刺したナイフで、彼はわたしを的確に刺し返してきた。
コーヒーカップに半分以上残っていた冷めたコーヒーを飲み干すと、黒い液体が身体の真ん中を通っていくのと同時に、全身がカチカチに固まって冷えていくみたいだった。一丁前に傷付いた自分の図々しさに呆れ返る。

その後、ずっとお茶やご飯に誘い続けてくれている人と会ってみた。鉛みたいな腰を上げた。
その人は、こぎれいな洋服を着て、わりときれいな顔立ちの人だった。facebookでみる写真より、ずっと素敵に見えた気がした。
だけど、わたしが前菜のサラダを食べ、ボロネーゼを食べ、食後のコーヒーを飲んでいる間ずっと「愛とは何か」という哲学的なテーマの話をされた。わたしは自分のことをちっとも喋らなかったし、聞かれなかった。
本当は気圧されて話すチャンスさえなかっただけだけど「緊張してあんまり喋れない、ごめんなさい」と言うと「いてくれるだけでいい、癒される」と彼は言った。そして、たった一度会って話しただけのわたしを好きになったと言った。彼氏がいると言っても引き下がらなかった。「愛してる」「結婚したい」「恋しい」LINEで愛の言葉がポンポン送られてくる。もしかしたら、あんまり女性慣れしてないのか、えげついロマンチストなのかもしれないなあ。
などと思っていたらただのクソヤリチンだった。同僚が「ヤってしまったら検査行って下さいレベル」と豪語する遊び下手だった。同僚がボロクソに言うヤツほど信じられないものはない。
その話をした後輩に、本当にバカだと言われた。確かにバカすぎる。わたしはこんなペラペラの嘘が見抜けないのだ。今の自分で褒められるのは、警戒心が強くてすぐにヤラせないところだけだ。見る目がない。なさすぎる。恥ずかしくて情けなくて、ちょっと泣けてしまった。この歳になって、こんなに痛い話はない。

 


年始に引いたおみくじは大吉だったし、待ち人は便りがあり、来ることになっていた。恋愛運もすこぶるよかった。だけどそんな気はあまりしない。

誰にも平等な優しさで女を包み込んで、いい感じに空気が読めて、いつの間にかスッと心の隙間から入ってくる男だっている。そういう男はスマートに女と遊ぶことができる。
こちらが何も言わなくても好きな音楽を流してくれたり、贈り物をしたり、好きだとか愛してるとか言わなくてもそれを伝える方法を知っている男だっている。
わたしはそれを知っていて、それしか知らない。
そして、そういう男にわたしは選ばれない。
 


わたしは、根暗でひねくれてるキモい女だから、インスタグラムで「#日本中のプレ花嫁さんと繋がりたい」というタグを検索するのがここ数年のルーティンワークです。(これは言わないだけでたぶん皆やってます)

いや、幸せいっぱいかよ。
こんなふざけたタグを作るな。繋がりたがるな。結婚式くらい、仲良しのご友人、愛するご家族、最愛の旦那様たちに囲まれてひっそり挙げれや。
完全な負け惜しみだけど言わせて。寒いわ全部!なにが#チーム冬婚じゃ、全員インフルエンザになれ!A型の高熱出る方じゃ!
クソッ羨ましい、こんなに寒いのに!

清水翔太を聴いて泣ける男も、クロムハーツばかり身につけた男も、えげついロマンチストも、押し付けがましい優しさも、漲る自信も、ヤリチンも全部嫌いだ。ごめんだ。身の程知らずは分かっているけど、わたしはそういう嫌な感情を隠し通せない。本当は、寒いタグいっぱい付けてインスタグラムに投稿できる女がよかった。清水翔太で泣ける女がよかった。甘え上手な可愛い女になりたかった。
こんなクソみたいな自分のことが本当に好きじゃなくて情けない、もうやめたいって思ってるけど、どうしてもどうやってもこういう自分が捨てきれない。

もうしょうがない。終わりです。

 

creep聴いてダウナーになるのとか、10代で卒業してたかったよ。
そりゃ、わたしらみたいな人間の味方してくれる名曲やけどさ。ありがとうトムヨーク。

今年は仕事がんばるよ。

 

 

 


 

 

 


 

 

魔女宅

 

 

 

わたしは『魔女の宅急便』という映画作品が大好きだ。何回観てもいい。
こないだ金曜ロードショーでやってたのを録画で観て、やっぱりいいよな〜〜となったので、過去の殴り書きしてた下書きにちょっと加えて。

 


魔女の宅急便』の主人公のキキは作中で、基本的には明るく活発なキャラクターとして描かれてはいるけれど、思春期の少女としてのリアルな「闇」の部分も多く描かれているように思う。
キキは、彼女の存在そのものや、自分行動によって返ってくる周囲の人間からのリアクションを異常に気にする傾向がある。これは、現実の思春期の少女としてはよくあることだ。周囲からの自分への評価に対して悩み、もがいて大人になっていくのが思春期というものだと思うから。
宮崎駿は、この思春期特有の「闇」の部分をキキというキャラクターの成長の過程でリアルに描き出している。そして、この「闇」の部分を乗り越えてゆくことは、「通過儀礼」としての役割を果たしており、キキが大人になっていく成長物語のストーリーが構成されている。
キキは、周囲から「いい評価」を得られることを善しとしていて、それを常に求めている。これは至極当たり前の感情ではあるけれど、その感情にキキは振り回され、それゆえに「闇」の部分が色濃く見え始めるようになっていく。

 

キキが独り立ちをして、コリコの街に到着してすぐ、その片鱗は見え始める。冒頭からここまでのキキは、自分が「魔女である自分」を少なからず誇りに思っていて「魔女としての自分」に無意識的なアイデンティティを見出しているように見える。
ところが、コリコの街でキキはそのアイデンティティは打ち砕かれることになる。誰からも大して歓迎されることはなく、ましてや空を飛ぶことを注意され、ホテルに泊まるにも身分証明を求められ路頭に迷う。コリコの街ではキキが「魔女」という肩書きは何の役にも立たなかった。これが、キキにとって1度目のアイデンティティの喪失。

出鼻をくじかれ途方に暮れているところで、キキはグーチョキパン店のおソノさんと出会う。パン屋のお客様の忘れ物を届けるという「初仕事」をすることで、キキはこの街に来て初めて評価される。この場面で、キキの中では「魔女である」という肩書きだけのアイデンティティの崩壊を経て「魔女として人の役に立つ」ことでのアイデンティティの確立が無意識的になされている。
そうしてキキは「魔女の宅急便」を始めるのだが、ここでキキには変化が生まれる。住み込みで宅急便の仕事を始めたキキの言葉に「私、空を飛ぶしか能がないでしょ?」というものがある。これはキキがここで、自分の能力と向き合えるようになり「魔女である」という無力な誇りから抜け出したものだとわたしは思っている。
このあと、キキは絵描きのウルスラとも出会い、初めて正式に依頼された仕事を成功させ「いい評価」を得られたことで喜ぶのだが、しかし、ここから順風満帆な生活が始まるのかといえばそうではない。ここから描かれ始めるのはキキというキャラクターの持つ、思春期の少女の「闇」の部分。
ある日、仕事で訪れた老婦人の家で、キキは孫娘の誕生日を祝うためのニシンのパイ作りを偶然手伝うことになった。このときのキキはとても元気にひたむきに、業務内容から外れた仕事に取組み「いい評価」を得ようとする。パイは無事完成し、老婦人から感謝されながら、豪雨の中を急いで届けるが、ここで出会う孫娘の態度はキキの心をひどく傷付ける。孫娘の冷たい態度と「このパイ嫌いなのよね」というリアクションが、キキの中でひとつの評価となってしまったから。
落ち込んでしまったキキは招待されていたパーティーにも間に合わず、豪雨で濡れたまま眠ったために高熱を出す。
キキは精神的に非常に打たれ弱く、ナイーブ。これも、思春期の少女のひとつの特徴であると言える。そして、このころからキキの魔法に陰りが見え始める。

風邪をひいてから落ち込んでいる様子のキキを励まそうと、オソノさんはトンボのところへお使いを頼む。そこでキキはトンボと2人で自転車に乗り、不時着した飛行船を見に行くのだが、トンボの友人たちがやってきて「一緒に飛行船の中を見に行こう」という誘いを受ける。
ここでもキキは素直になれず、またトンボに冷たい態度をとってしまう。ここでのキキの冷たい態度は、トンボに対する嫉妬と、新しい人間との関わりを拒絶してしまう感情とが入り混じったものではないだろうか。ここでも思春期の少女像が現れているのだが、この時、キキはトンボに対して恋愛感情が芽生えていたと言えるだろう。恋をしたことで、13歳の少女はいっそう不安定になっていく。その後、キキはジジの声が聞こえなくなっていることに気付く。そして、相次いで彼女は箒で空を飛べなくなってしまう。陰りを見せていた魔法の力が、ここで完全に消えてしまうのだ。飛べなくなったキキは「魔女の宅急便」を一時休業し、思春期最大のスランプに陥ることになる。

 

キキの魔法の力はなぜ急速に失われてしまったのか。これに関しては先行研究やインターネットでの意見交換などがされていて、数多くの説があるのだけれど、その中に、キキが飛べなくなった原因はキキの「少女から女性への変化の過程」であり「初潮」のメタファーであるという説がある。
これはトンボへの恋心の現れからも読み取ることができるだろう。恋をすることで少女は大人へと近付き始める。
先ほども述べたように、思春期の少女は不安定であり、特にキキはそういうキャラクターとして描かれている。もしも「初潮」のメタファーであるならば、少々生々しい考察にはなるけれど、初潮を迎えたことによる身体的苦痛(PMS)を経て、キキは精神的に不安定になり、トンボに急に冷たい態度をとったりする点にも現れているとも考えられるかもしれない。だけど、ここまで宮崎駿が考えていたのかと言われれば、少し考えすぎで、強引な説のような気もしてくる。
キキの「魔法の力」は全て失われてしまったわけだけれど、ここで重要視したいのは、空を飛べなくなってしまったことよりも、ジジの声が聞こえなくなってしまったという点。キキにとってジジは、幼いころからずっと一緒に過ごしてきた一心同体のような存在として描かれている。ジジを人間のキャラクターに置き換えて考えてみれば分かりやすいかもしれない。
これまでずっと、同じ環境で同じように育ってきたキキとジジだけれど、ここで初めて、自分が恋をした相手への態度で差が生まれているのである。キキは、恋をした相手であるトンボに対して意に反してうまく接することができずに溝を生んでしまう、いわばまだまだ子どもということ。
対してジジは随分と大人だ。最初こそ、お高く留まっている美しい白猫に対して敵意を露わにしていたものの、結果として、自分が惹かれた白猫とうまく距離を縮め、恋を楽しんでいる。これは、キキと比べてジジの方が先に大人への階段を登ってしまったということだと思う。キキとジジ、一心同体の思春期の「闇」を先に抜けたのはジジだった。

 

 

キキは、空を飛ぶ魔法と、ジジと話す能力の2つの魔法の力を失った。特に、ジジとのこれまでの一心同体のような関係が失われたことで、2度目のアイデンティティの喪失を経験することになった。
ここで、キキはまた新たなアイデンティティを見出すため、変化、成長せざるを得なくなる。ここで彼女にとって重要な役割を果たすのが、画家の少女ウルスラ

ここで、キキとウルスラの関係性について考えてみる。

◎キキ
13歳となり、「魔女の掟」とされる独り立ちの日を迎えた活発な少女。キャラクターデザインとしては、ショートカットで小柄な活発な少女として描かれており、赤い大きなリボンがトレードマーク。作品冒頭では薄緑色のワンピースドレスにサーモンピンクのエプロンを着用していたが、独り立ちしてからは「魔女の掟」に則り、黒いワンピースドレスしか着用しなくなっている。箒を利用して空を飛ぶことだけが、魔女としての彼女の唯一の取り柄である。自分の特技である箒での飛行を利用して宅配業務を行う「魔女の宅急便」を開業し、様々な経験を通じて悩みながらも成長していく姿が描かれている。
作中でのキキの声は声優の高山みなみが担当している。

ウルスラ
森の中の小屋で絵を描くことに没頭する画家で、19歳の少女である。キャラクターデザインとしては、少女というよりも、ある程度大人になった女性的な体型で描かれているが、女らしいというわけではない。(少々中性的に描かれているところもあるかもしれない。)いつもタンクトップにショートパンツという軽装である。ロングヘアーを高い位置で結んでポニーテールにしている。キャラクターデザインの印象の通り、明るく活動的であり、潔さのある少女として描かれている。キキが宅配中に落としてしまった荷物を見つけ、宅配の手助けをしたことがきっかけでキキと仲良くなり、お互いの家を訪ねあうほど仲良くなっていく。「ウルスラ」という名前は公式設定であるが、劇中では1度も名前で呼ばれていない。
作中でのウルスラの声は、キキと同じく声優の高山みなみが担当している。

 

ウルスラは、アイデンティティを失い宙ぶらりん状態のキキに、新たなアイデンティティ確立の手助けをする大切なキャラクターだ。なぜなら、ウルスラもまた、キキと同じように思春期の「闇」を抜け出してきた経験があるから。ウルスラは、悩めるキキを家に泊め、眠る前にキキと話すのだが、このシーンでのウルスラは、キキの思春期の「闇」の部分の代弁者のように見える。

「私さ、キキくらいの時に絵描きになろうって決めたの。絵描くの楽しくってさ、毎日寝るのが惜しいくらいだったんだよ。それがね、ある日、全然描けなくなっちゃった。描いても描いても気に入らないの。それまでの絵が、誰かの真似だって分かったんだよ。どこかで見たことがある!ってね。自分の絵を描かなきゃ、って。」
「魔女の血、絵描きの血、パン職人の血。神様か誰かがくれた力なんだよね。おかげで苦労もするけどさ。」

これはウルスラの語りでもあり、キキの心の叫びでもある。この時のウルスラとの会話中で、キキは「魔女は血で飛ぶんだって」という発言をしている。おそらく、キキは「魔女の血」と向き合うことを恐れ、その血脈から逃避してしまいたくなっていたものだと考えられる。しかし、ウルスラの言葉を聞いて、誰もが持つ才能ゆえの苦労を自分に近い感覚で分かち合い、理解してくれるウルスラに、キキは自らを見たのだと思う。
そして、この2人のキャラクター設定で最も印象的なのは、キキとウルスラの声優が同じだということ。2人の声は、声優の高山みなみが当てている。2人のキャラクター設定は全く別人のようにも思えるが、この「声優が同じ人物である」という事実が、2人を重ね合わせる手助けをしているように思える。ウルスラというキャラクターは、キキが思春期の「闇」を乗り越えて成長した姿であり、キキそのものでもある。ウルスラは、アイデンティティを喪失し、自己を見失ったキキに道しるべをしてくれる、第2のキキ(第2の主人公)であるといっても過言ではないキャラクターだろう。


ここからは、物語の終わりとキキのアイデンティティの確立へと向かってゆく。
ウルスラからのアドバイスを得た後、キキは、ゆるやかにアイデンティティを確立し、物語は飛行船からのトンボの救出の場面を経てエンディングへと向かう。
トンボを救出するにあたり、キキが使用したのは今まで使ってきた箒ではなく「デッキブラシ」という新しいアイテム。
キキが、箒ではなくデッキブラシを使用したことには、キキがコリコの街の人間としての自己を確立する手助けの意味がある。このデッキブラシはコリコの街の人間の物であり、新しい人間たちとの関わりを持つ第一歩を表したアイテムである。キキは、デッキブラシを使ってトンボを救出することで、思春期の「闇」の部分から完全に抜け出すことに成功する。この、デッキブラシを使用してのトンボの救出の描写は、過去の自分との決別をはかり、新しい自己を確立するとともに、コリコの街の人々からも受け入れられたというものだと思う。
魔女の宅急便」のエンディングの映像では、物語のその後のキキの姿が描かれている。ここでもキキは、箒ではなくデッキブラシを使っている。この物語のなかでの箒は、キキの「魔女である」ことへの自己認識のメタファーだと考えられる。箒を捨て、デッキブラシを使うようになったキキは、「魔女である」ことにこだわり続けた自己からの逸脱に無意識のうちに成功している。
そして、キキは、物語の最後に、トンボの救出という物語最大の「通過儀礼」を乗り越えたことで、コリコの街の人々たちとも打ち解け、思春期の「闇」の部分を抜け出すことに成功したといえる。キキは、過去の自分と決別したことで思春期の少女から少し大人へと近付き、知らず知らずのうちの自分自身の変化によってコリコの街に馴染み、人々と打ち解けあうことで、新たなアイデンティティの確立に成功したのかもしれない。
そして、「落ち込むこともあるけれど、私、この町が好きです。」というエンディングのラストのキキのセリフからも読み取れるように、おそらく、キキはこれからもまだまだ悩み続けることだろう。しかし、このセリフからは、確実なキキの心境の変化が読み取れる。キキは、コリコの街でのアイデンティティを確立し、大人へと成長する一歩を踏み出せたことで初めて「この街が好き」と言えるようになったのでは、と思う。

キキのキャラクターは、思春期の少女の葛藤を如実に描き出した、非常に不安定で変化の多いもの。これは「キキのアイデンティティの確立までの道のり」として見る「魔女の宅急便」において重要なはたらきをしていた。
そして、もうひとりのキキとして見るウルスラのキャラクター像は、13歳の少女キキが「通過儀礼」としての様々な困難を体験することで、思春期の「闇」の部分を抜け出し、アイデンティティを確立していくという『魔女の宅急便』の物語のストーリーに必要不可欠なものだったと、わたしは思う。(だからわたしはウルスラが大好きで、何年もLINEのアイコンにしてる)

魔女宅はじめ、ジブリ映画を観るといつも、こんな風にもっと純粋にいろんなことに出会えてたはずなのになあと思う。大人になるっていいか悪いかわからんなあと思う新年。
 
  

 

 

 

 

 

 

 

 

名曲

 


先日、弟が映画『モテキ』を観るというのでなんとなく一緒に観た。わたしはたぶんこの映画を1年に1回くらいのペースで観ているんだけど、観るごとに感想が違う。(まさみはずっと可愛い)
今回の感想は「ヤバない?」である。


初めて観たのはハタチそこそこの頃。
京都MOVIXへ、購入したてのピストバイクに乗ってドヤ顔で行ったのを覚えている。劇場内はカップルだらけで、コンサバ系の女性とスーツの男性の社会人カップル2組に挟まれて1人で観るというしょっぱさだった。
しかし、ここでのわたしは、ダイレクトにくるサブカル感にかなり酔いしれていた。恥ずかしい。さらに「両隣のカップル、おまえらにわかるんか」みたいな最悪の痛さまであった。すごく恥ずかしい。

ルミ子さんが牛丼食べてなんかスッキリしてるのも「いいなあ〜〜〜〜〜!!」と思ってしまったし、当時の率直な感想が「ああ〜〜〜わたしもキスとかセックスとか、してぇ〜〜〜!!!」だったことも覚えている。アイタタタタタタタタタ!!!
恥ずかしい。本当に恥ずかしい。

今観ると、ルミ子さんが牛丼食べてなんかスッキリしてるのが1番ダメだった。30越えて好きな男にヤリ捨てられてなんとなくすけべなおっさんと寿司食ってセックスしておしゃれな朝食断ってハラヘッタ〜って吉野家で牛丼食べてよしスッキリ??

どんなに寿司がうまくても、おっさんとのセックスが悦くても、吉牛がうまくても、そんなんでスッキリする女などいない。

 
今回の感想は、主人公の幸世がクズすぎて「やばない?」だった。今までは幸世がそこまで嫌いじゃなかったから、幸世の人間性とかそういうのを考えなかった。(というか『モテキ』を色々考えながら観たことがなかった。恥ずかしい)
幸世くん、31歳であれはアカン。そりゃ成長できない。ルミ子さんをヤリ捨てるところも、仕事を投げ出してミユキちゃんとハッピーエンドなのもクソ。ここでハッピーエンドになってどうなる。幸世くんは何も成長していないし、ミユキちゃんはそれでいいの?マジでいいの??物語はちと?不安定???は?????である。

そしてはっきり気付いたのが、わたしは幸世くんタイプの男が本当に嫌いになってしまったということ。近年、変なプライドがあって、自分のサブカル好きを推す神経質な男が本当に無理になってしまったのだ。
ミユキちゃんと初めて出会ったところでの「俺のサブカルトーク全部打ち返してくれんじゃ〜〜〜〜〜〜ん!!!」のところはマジで虫唾が走る。いっぺん寝たくせに、好きじゃないしサブカルに詳しくない女やから友達も無理って何やねん。何様やねん貴様は、と。
ここまで幸世のサブカル推しを扱き下ろすようなことを散々書いておいてだが、これはブーメランである。
これは、ブーメランだったのである。

 

 

 

映画を観てしばらく経ったその夜、わたしは弟を車に乗せ、ドライブがてらコンビニに向かっていた。自作のプレイリストを流しながら。
ちょうどそのとき、loyle carnerというラッパーの曲がかかっていて「これめっちゃよくない?トラックシブすぎじゃない?」と、何気なく弟に声をかけた。
すると、弟から衝撃の返答が返ってきた。


「これ何言うとるかわかるん?」


え…?
衝撃である。
わからない。わからないのである。


「バンドとかもやけど、自分の好きな音楽姉ちゃんめっちゃ推してくるやん?マイナーなやつ。それ「みんなが聴いてないこんな曲が好きな私、どう?」って感じよ」


え…?
そうなのか?確かにそう…なのか??
いや、確かにわたしは自分の好きな曲をいいと思って聴いている。本当に好きで聴いていることには違いない。だが「みんなが聴いてないこんな曲が好きな私、どう?」という気持ちが全くないとは言えるのか?
胸を張って言えるのか?????


うわ言えねーーーーー!!!!!
気付いちゃった!!正直、言えねえ!!!
わたし、括りとしては幸世くんと一緒のタイプなんじゃないの…???

そりゃそんな嫌な女彼氏できねぇわ!!!
めっちゃ嫌な女!最低!マジで恥ずかしい!

恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!!!

 

 

弟は、わたしのiPhoneをそっとカーステレオのケーブルから外し、自分のiPhoneを繋いでこう言った。

 

 

「聴いてみ」

 

 

 

 

ええ曲ーーーーーー!!!!!!!

本当にいい曲だったので、正直、ここんところ毎日聴いています。マジの話です。

 

 

 

 

 

笑い話

 

 

 

先日、友人と電話していて思ったことがある。
その友人はいつも、付き合う相手とは身体の相性が1番だと言う。他の何を飛び越えても、そこは大事だと言う。
だけど、それがまだわたしにはよくわからない。胸が苦しくなるように好きではない人とそういう行為をしたこともあるけど、人と比べてキスもセックスも、経験人数が少ないからかもしれない。
だけど、誰とそういうことをしても、大好きな人とするキスにもセックスにも勝てない気がする。相手がどんなにキスが下手でも、どんなにセックスの相性が悪くてもある程度はそうだと思う…んだけどほんとは違うの?

みんなまともなの?まともじゃないの?
ときめき足りてるの?足りてないの?

 

 

 

わたしは難点のある人を好きになることが多いのかもしれない。
変な癖があったり、恋人がいたり、根本的に合わなかったり、遠距離だったり。
でも、そのときそのときで、ちゃんと好きになった人にちゃんと恋して、それを終わらせてきた。付き合っているにせよ、片想いにせよ。
ぼちぼち、終わらない恋ができたらいいのになと思う。

 

 

 

というわけで、明日はちょっぴり苦手な先輩に誘われて合コンで〜〜す!!!
わ〜〜〜〜〜〜〜〜い!!!!!!!!!!

オゴリらしいんでとりあえずしこたま酒飲んできま〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っす!!!!!!!!!