あしたがくるまえに

真剣30代しゃべり場

記憶の記録

2022/11/10 12:23

無事2828gの女の子が生まれてきてくれた。忘れないうちに記録。

 

 

11/9

5:30 お腹が痛くて目が覚める。トイレに行くと少量のおしるしがある。まだ軽い生理痛くらいで全然動けたので、部屋を軽く片付けて夫の朝食とお弁当を用意。夫の出勤と同時に荷物を持って実家に戻る。

15:00 軽い腹痛が続いている中、どんどん散歩をする。8000歩ほど歩く。8〜10分おきにバラバラの間隔で弱い陣痛が始まる。

18:00 痛みが強くなってくる。間隔は8分おきくらい。まだ生理痛くらいの感じで、笑いながら話せる痛み。食欲もあり、晩ごはんに母が揚げてくれたトンカツを食べる。

20:00 かなり痛くなってきて、病院に連絡をして内診とNSTをしてもらう。子宮口はまだ2cmくらいしか開いていなかったのでいったん自宅に戻り待機。

24:00 おしるしの量が増える。22時ごろから寝ようとするも痛みがまた強くなってきて全く眠れない。途中で夫からきた電話にも気付けず、痛みの波が来ている時は話しかけられても受け答えができなくなる。

 


11/10

1:00 いよいよ我慢できないくらい痛くなってきたので病院に電話。間隔は8分のまま。電話でもう少し感覚が短くなるので後1時間自宅で様子を見てと言われる。

3:00 少しうとうとしたがどうしても眠れず、間隔も縮まらないのに痛みだけ強くなる。病院へ電話して再度向かう。内診してもらい子宮口3cmで入院へ。痛みで眠れず、間隔は全く縮まらない。4時ごろ、夫が顔を見に会いにきてくれて少し気持ちを持ち直した。

8:00 一睡もできず気持ちが弱っていたが、縮まらない間隔と強くなる痛みにだんだん腹が立ってくる。陣痛が来る波の間に、朝食に出されたバナナを無理矢理食べて頑張るぞ!と自分を奮い立たせる。

8:30 先生が到着して内診。微弱陣痛の診断がおり、このままでは母子共に体力がもたなくなるので促進剤を投与してお産を進める提案をされる。初産なのでおそらく促進剤を使用しても、お産が終わるのは早くて15時、普通に進めば18時ごろになるでしょうと言われ、この感じが夕方まで続くの…?と絶望する。夫が仕事中のため、電話で促進剤を使う同意をとる。おそらくまだまだ時間がかかるので子宮口が5cm開くころに連絡するから、それから向かってくれれば大丈夫と助産師さんが伝えてくれる。

10:00 促進剤投与開始。陣痛は7分間隔からスタート。投与前からすでにかなり痛い。が、投与が始まってからまさかの10分くらいで間隔が2分になってしまう。波で来る痛みが急に早くなったため陣痛に備える気持ちの準備ができず気絶しそうになる。陣痛が来るたびにヒィ〜きたきた押してくださいぃ〜お願いします〜と頼むと助産師さんが励ましながらお尻を押してくれる。痛すぎて泣いて弱音を吐く。見てみよっか〜と子宮口を見てみるともう5cm空いていて「えっもう5cm!?早!!」と助産師さんが夫に電話をかけるように言い、私はすでに痛すぎて話せないのでスピーカーにして助産師さんに話してもらう。もしかしたら到着を待たずに産まれてしまうかもしれないと助産師さんが夫に話している。分娩室に助産師さんが2人入ってきて、3人でついてくれる。

11:00 子宮口が全開になる。気持ち悪くなり2回嘔吐。痛みで何回か気絶して起こされる。いきみのがしが下手くそすぎて我慢できずいきんでしまい「待って待ってまだダメまだダメ!」と止められてもう無理ですぅ〜痛いよ〜と泣く。夫が来て(無我夢中なので到着した時間はわからない)頭元で汗を拭いてくれて手を握ってくれる。見てられないって感じで顔を伏せてる気配がする。息が上手く吸えなくなり酸素マスクをする。

12:00 先生が分娩室に入ってきて、会陰切開する。陣痛が痛すぎて全然痛くないけど、陣痛が来てない時にもグイグイ手で開かれるのが痛い。痛いです〜と言うと助産師さんが「今もう止まってるから!」と先生を止めてくれる。もう死ぬ…と思った頃、頭見え始めたよ!と教えてくれる。やっといきめる!!!となったけど、いきんでもいきんでもなかなか出てきてくれない。あとで聞くと出口が小さくて出づらかったらしい。しばらく頭がガチっと挟まってしまったのでちょっと頭が伸びてしまった。ごめんね。頭がズルッと出たらすごく楽になって、そのあと軽くいきんだらスルッと全身が出てきた。すごい感覚だった。世界一スッキリする瞬間かもしれない。夫がちょっと泣いていて、ずっと夫が手に握ってたお守りは手汗と握力でぐちゃぐちゃになってた。

12:23 爆誕。生まれてすぐ、めちゃくちゃ元気な泣き声で泣きまくってくれてホッとして涙が出た。朦朧としていたけど、生まれた瞬間から顔が夫すぎて助産師さんたちが爆笑している。カンガルーケアで胸元に来た赤ちゃんはかわいすぎて、嬉しすぎて、痛さも恥ずかしさも全部忘れた。

おめでとう、頑張ってくれてありがとう、母にしてくれてありがとうって思った。

 


娘の名前は凪(なぎ)になった。

釣り好きの夫。自分の店の名前も「凪」という意味なんだけど、妊娠がわかった時から子の名前も凪にすると決めていたみたい。凪ちゃん、のびのび育って、穏やかな人生が送れますように。

去年まではこんな日が来るなんて想像もしてなくて、毎日仕事頑張って、毎日お酒飲んでタバコも吸って夜はしょっちゅう街に出て遊んでた。それもすごく楽しかったけど、彼女が生まれてきてから毎日しんどいけどもっと楽しい。人生捨てたもんじゃないな。

 

 

 

 

31歳の抱負

1日に31歳になった。31歳という数字に実感はないけれど、肌に年齢を感じる歳になったな、とは思う。

私は今年の3月末に入籍した。

家族や親戚が集まったり、友人にお祝いの会を開いてもらったり、このご時世でしばらく顔を見ていなかった人たちに会えた。何より両親が喜んでくれて、本当に嬉しかった。

 

私の両親は健在だけど、お義母さんは去年の夏に突然の病で亡くなった。亡くなってからまだ1年経たない。喪中での入籍に思うこともあったけれど、お義父さんの後押しもあって、付き合って1年で入籍を決めた。

お義母さんが亡くなった日は私たちが付き合って半年の記念日で、夫はその日に私をご両親に紹介しようと思っていたのだと後から聞いた。私もお通夜とお葬式に参列させてもらい、そのとき初めて私はお義母さんと対面した。夫は3人兄弟の末っ子で、2人のお義兄さんと奥さんとご家族みんながお義母さんとの別れを惜しんでいた。どんなに愛されていた人か、どんなに素敵な人だったか、その時、2人のお義姉さんの悲しむ姿を見てよくわかった。お義母さんはきっと、私のことも本当の娘のように大切にしてくれる人だった。

母の日を前に、お義母さんのお墓参りに行った。お墓の周りに生えているメヒシバを抜いて、墓石を擦った。気温が上がってきたからか、水受けもカラカラに乾いていた。生前、1番好きだったというガーベラを仏花と混ぜてお供えし手を合わせた。少しの間そこにいただけで、春をすっ飛ばしたように、首の後ろがジリジリと灼けて暑かった。私もお義母さんと、いちどだけでも話してみたかった。

 


入籍からほどなくして妊娠が発覚し、私は秋に母親になる。不思議とタバコもお酒も欲しくなくなった。ぺたんこの靴を履き、やぼったいワンピースばかり着て出かけている。妊娠がわかってからは、私が実家に頻繁に帰ったり母が遊びに来ることが増え、毎日のように母と連絡を取るようになった。母が何よりも私の体調を気遣い、誰よりも楽しみにしてくれているのがわかる。

夫はことあるごとに寂しそうにしている。病院でもらったエコー写真を遺影に供え「何死んどんや、おかん」と呟く。お義母さんが健在の時、積極的に顔を見に帰ってはいなかったのだと思う。きっと後悔してもしきれない。

今年の母の日、夫は私の母にプレゼントを用意し、一緒に渡しに行ってくれた。

 


私はずっと、母と呼ばれるようになるとひとりの女としての人格が無くなるような気がしていた。いろんなことをやめて、諦めて、その子のためだけに生きなければいけなくなるような気がして、なんとなく、もっとずっと先のことのような気がしていた。

だけどこのお腹に命が宿ってからは違っていて、この子のためにこそ自分を大切に、柔軟に生きたいと思っている。我慢こそすれ、諦めなくていい。この子のためにしなやかに生きたい。

気負いすぎることなく、私のままで、ゆるやかに母になっていきたいと思う。今年の抱負!

 

 

年の瀬、ヒッチハイク事件に思う

2021年が終わるまであと1か月を切った。

今年の冬は暖かくて、野菜がめちゃくちゃよく育っているらしい。スーパーに行くと、葉もの野菜やニンジン、大根なんかがまあ安い値を付けられている。職場では社割でオーガニック野菜が投げ売りされていて、ニンジンが1本5円、大根が1本20円、でっかい白菜が1玉50円で売られている。よく「オーガニック野菜は味が濃い」という消費者の声を聞くけれど、正直私には野菜の味の違いはよくわからん。鍋に入れてぐつぐつ煮込めば、農薬たっぷりのツヤツヤした大根と、でこぼこのオーガニック大根の見分けは私にはつかない。母が作るあまーいゆずみそをつけて食べるとどっちもうまい。

 

先日、先輩にフリーマーケットの売り子のお手伝いをさせていただく機会があったので、私もCDを何枚か置かせてもらった。実家にCDを取りに帰ると、彼らはサブスクの文化になってからもう何年も聴かれず、誰もいない実家の子ども部屋にひっそりと並んでいた。

ゆら帝とかoasisとか、7枚くらい売れたけどほとんど残った。高校生の時に聴いていたナンバガとかボアダムスとか、フジファブリックとかバンアパはひとつも売れなかった。200円とか300円の値札をつけながら、10代のころを思った。

狂ったようにナンバガを聴いていた頃だったと思う。私は高校1年生のときに学校をさぼった。普通の顔をして家を出て、学校へは行かず、徳島城公園で1日中昼寝した。すぐに母親にバレて、めちゃくちゃ怒られるだろうと思いながら帰宅したのだが、あまり怒られなくて拍子抜けしたことを覚えている。そのあと母に「休みたい」と言うと、母は父を説得し、無条件で2日間学校を休ませてくれた。私は、3日間のプチ不登校を経てすっきりと復帰した。

当時の心情は思い出せないけれど、たぶん、上がらない成績とか人間関係とか、いろんなことが全部嫌になった瞬間だったのだと思う。今思えば、子供のころから私はストレスを1人で溜め込んで、1人で爆発させるタイプだった。

 

幼少期のできごとで、家族から「ヒッチハイク事件」と呼ばれるエピソードがある。

私が3歳、もうじき4歳になろうとするころ、保育園で、1つ年上の女の子をリーダーとするグループからいじめられたことがあった。スカートを履いていると文句を言われたり、人気のある男の子と遊ぶととりまきから告げ口され、ハブられたりしていた。その年齢で、すでに女の嫌なところを結集したようなやり方をしていることに辟易する。母親がコーディネートしてくれるスカートやワンピースを「さむいから」と断ってズボンを選んで登園していたことを覚えている。おそらくめちゃくちゃストレスを溜めていたけれど、なぜか誰にも言わなかった。

そして、何の前触れもなくあの朝、その爆発がやってきたのだ。

母はその朝、いつもより早く出勤していたのだと思う。父か祖母に保育園まで送ってもらうところを、私は1人で外へこっそり抜け出し、10キロ近く離れた母の職場を徒歩で目指した。とんでもない3歳児である。

家を出てしばらく進むと、細い道から交通量の多いバイパスに出て、3キロくらい歩くと長いトンネルがある。このトンネルを通らなければ、母の職場には行けなかった。

トンネルの少し手前で、お兄さんが大きなトラックから駆け下りてきて「どうしたん1人で」と声をかけてくれたのを覚えている。私は、「お母さんに言いたいことがある」と答えたらしい。

「どこまで行くの」と聞くと「●●小学校まで行く」と3歳児が答える。「遠いけど1人でいくの?1人できたの?おうちの人は?」と何度か質問を投げかけても「お母さんのところまで1人でいく」と、キリっとした顔で3歳児が答える。やばすぎる。

そのお兄さんは、仕事に向かう途中だったけれど、明らかに危ないと判断し、そこで車に乗せて母の職場まで連れて行ってくれたという。これが私の人生最初で最後のヒッチハイクである。

この方は本当にいい人だったけれど、人によっちゃめちゃくちゃ危なかったと思う。お兄さんとは、毎年年賀状をやり取りしている。昨年娘さんが結婚したらしい。

父と祖母は乳児の弟をお隣に預け、2人で罵り合いながら死に物狂いで私を探したらしい。職場に連絡が入り焦っていた母のもとへ、お兄さんに抱かれて私が到着した。私はその時はじめて母親が泣いた顔を見て、そのあと家に帰って、泣きながら怒っている般若のような父親の顔も見た。その父の顔が死ぬほど怖かったのか、私はしばらく父に近寄らなかったそうで、本当に申し訳ない。

祖母にもめちゃくちゃ怒られたが、祖母はその日仕事を休んで1日中私を抱っこしていたし、母は、私がそれを拒否する日まで、毎日私を抱きしめて寝た。

 

 

母は今でもこのヒッチハイク事件やプチ不登校を例に出し、ときどき思い出したかのように「なんでも爆発する前にお母さんには言いなさいよ」と言う。

徳島に帰ってきて実家暮らしをしていた20代のころは、夜中に急に思い立って何も言わずに1人で九州に行ったり、東京に行ってみたり、誰に何の相談もなくルームランナーを買ったりして小爆発をしていたけれど、ここ数年、私はちっとも爆発しなくなった。

弟も結婚し私も家を出て、本当に子育てが終わって手が離れた感じがして、母はここへきてちょっと寂しいらしい。

ゆうべ寝る前に「お正月はおいしいおせちがあるし、もうお正月ゆっくりできるの最後なのに、手ぶらで帰ってきたらいいよ~」というLINEが届いていたので「大根とお酒持って帰るからゆずみそ作っといてほしいな」と返信した。

 

私、爆発しなくなったんよお母さん。ちんたら大人になってごめんね。

 

 

youtu.be

 

 

 

折り合い

 

最近、正式に彼氏と同棲を始めた。

お互いの親に会って挨拶も済ませて、あとは私の荷物を片付けるだけになった。

彼は口のまわりとあごにひげを生やしている人で、私は、挨拶に行った日の朝に、はじめてひげをきれいに剃ったつるつるの顔を見た。私の両親と話しているときに横を見ると、鼻の下にうっすら汗をかいていて私も緊張してしまった。

そして、ちょっと嬉しかった。

 

 

彼の部屋は2LDKで、リビングと和室の間にあるふすまを取って広く2部屋をリビングダイニングとして使っているので実質1LDKのようなものだ。

彼は4年間この部屋に1人で住んでいた。古いアパートだけど、とっても気に入っている部屋らしい。

1人暮らしが長いと、部屋にはモノが増える。

私が荷物を運びこむと部屋が狭くなるのでは、と思ったけれど、新しく棚を作ったり、要らない衣類を捨てたりして私のスペースを捻出してくれた。私もなるべく荷物を減らし、必要最低限のものしか持たないようにした。

 

一緒に暮らすということがぼんやり決まり始めたころから、私にはひとつ不安があった。

彼と私とは、性格が真逆といってもいいほど違うのだ。

彼は基本的には誰に温厚だけど、必要な時は誰にでもはっきりものを言う。知らない人にも全く遠慮しないし、間違っていることは間違っているとはっきり言う。対して、私は誰とでもなるべく争いごとを避けたい。知らない人なんてもってのほか、友人にだってそうだ。自分が我慢することで波風が立たないなら、間違いなくそちらを選ぶ。

ほかにも、彼は几帳面だけど私は大雑把。彼はお風呂に入るのを面倒くさがってご飯を食べた後何時間もゴロゴロ、私は帰宅したら即湯船に浸かりたい…。半同棲を半年続けてきて、生活の面でも違いが見えていた。だけど、それは他人だから仕方ない。

彼とは何日も口を利かないような大きな喧嘩をしたことはまだない。基本的に私が全部折れるからだ。小さな喧嘩はよくするけれど、私は口喧嘩で勝ったことがない。というか、怒りなれていないから口喧嘩とも呼べないかもしれない。言うなれば彼がR指定で私が呂布カルマ。あれくらいボコボコにされる。もう何も言うことねぇわ。

 

まあいいや、と思う。

彼の嫌なところはたくさんあって、この嫌なところとこれからずっと向き合わなくてはいけないのか、と思う瞬間が死ぬほどある。だけど、まあいいや、と思う。「所詮他人だから解り合えない」という諦めなのかと言われると、そうではない。

自分の中で折り合いをつけるやり方を私は知っているからだ。彼にだけでなく、子どものころからそうしてきた。

私が「嫌だな」と思っているのと同じように、彼にとっても私の嫌なところがいくつもあるはずだ。彼はそれを私に伝えてくれるし、私もそれを聞くと直そうと思う。彼に指摘されたことを「自分のスタンスを変えたくないから、彼が我慢すればいいからまあいいや」とは私は思わない。彼も同じだといいなと思うけど、私は彼に、彼の嫌なところが言えない。

 

 

この間の日曜日、彼とドライブしていた時、コーヒーを買って渡してくれた彼に私は無意識に「すいません」と言った。「ありがとう」という意味の「すいません」だった。

彼は「おー」と返事をしてからしばらく考えていて、小さい子どもに話すみたいに言った。

「おまえ、悪くないときも謝るけど謝らないでいいよ。ありがとうっていうときまでごめんって言う。そんなに萎縮しなくていいよ。もっと自分の意見もっと言っていいし、別にもっと怒ってもいいし。喧嘩はするかもしれんけど、まあ、それはそれでいいでしょ」。

彼が窓を開けてたばこを吸うと、冷たい風と一緒に灰が舞って車内に入ってきた。お気に入りの茶色いニットに灰がついて、擦ると白くなってしまった。気が付いた彼は「これ使って」とウェットティッシュを渡してくれた。プライドなのか性格なのかわからないけれど、こういうときに彼はよく、言葉にしないで「ごめん」を言う。きっと、言葉が必要なときもあると思う。

 

 

やっぱり私は誰とも、なるべく、喧嘩はしたくないな、と思う。自分の心を折って、意見を曲げてでも、人を嫌な気持ちにさせるような喧嘩はしたくないと思う。喧嘩にならないようなやわらかな言葉でも、誰かの心は動かせるから。だけど、言わなければいけないことを、本来黙っている必要はないのだ。

彼といて、この人とは自分の気持ちを忖度なくぶつけて、喧嘩して悲惨なことになっても大丈夫なのかもしれないと思う。でもなかなか勇気が出ない。

果たして、呂布カルマがR指定といい勝負する日は来るのかしら。

 

 

「折り合い」ってとても美しい日本語だと思う。

好きだな。星野源の曲を聴くと、日本人でよかったなと思う。

 

 

地獄でなぜ悪い

 

人生最速で時が流れている。

速い、速すぎる。この間きれいにクリーニングして冬物をタンスに詰め込んだところなのに、もう薄手のカーディガンが要る。成人してからここ10年はずっとこの感覚と闘いながら過ごしてきたように思う。

20代は自分がうまくいかないことを、流々と前を歩いていく友人と比べて落ち込むことがほとんどだった。SNSを開いては、恋人がいてどんどん美しくなっていく友人の毎日、ギラギラした商社の飲み会、兼ねてよりお付き合いしていた彼との結婚報告(これが続いたりする)を目にしては、自分だけが取り残された気分になった。自分だけが平凡でつまらない人生を送っていて、他人の人生は全て最高の人生に見えた。

少し見ないうちに、親友の子供が赤ちゃんから少年になっている。少し見ない間にひとつ年上の幼馴染がずいぶんと老け込んでいる。老衰で祖父母が死ぬ。特に25歳から28歳くらいにかけてはこの感覚をとてつもなく情けなく感じていた。「何もしていないのに時間だけが過ぎていく」という焦燥感が何をしてもついて回った。年を経るほどに自分自身の存在さえもがプレッシャーになって、いつか押しつぶされるようなどこか恐ろしい気持ちを抱えていたのだが、29歳から30歳になった今年は、ほとんどそれがなかった。やっと私は大人になりかけているのだと思う。自分と、自分の周りにいてくれる人たちが穏やかな気持ちでさえあれば、他人のことはほとんど気にならなくなった。別に状況は変わっていない。あくまで、あまり‟気にならなくなった”だけのことなのだけど。

人目を気にしてしか生きられなかった幼い20代だったのだと、振り返れば悔やまれる。ずっと自分に自信がなくて、人と比べることでしか自己肯定感を満たせなかった。そして、その自己肯定感は満たされないまま、iphoneを傍らに浅い眠りについていたような気がする。よく変な夢を見ていたのだが、最近めっきり見なくなった。

今になって思えば、私は華やかに見える友人たちの現在を、SNS上でしか知り得ない。たまにメッセージのやりとりがあるくらいで、だんだん疎遠になって、20歳の同窓会以来、大学卒業以来、会っていない友人の方が多いのだ。もしかしたら、本当に毎日が楽しくて充実しているかもしれないけれど、今の彼らが、本当はどんな気持ちで毎日を送っているかなんてわからない。わからないのに、勝手に私自身が彼らの送る人生を最高だと決めつけていた。もしかしたら、ものすごくつらいことがあったかもしれない、空虚を隠して楽しいことだけを選んで発信していたかもしれないのに。

人には人の地獄がある。そして、その地獄はほとんど語られることはないのだ。今だって、私は毎日、大なり小なり地獄を見ている。皆そうだ。私の地獄は、他人の地獄と比べられないし比べる必要がない。たったそれだけのことが、わからなかった。

 

今、一年間の浪人を経て、今年大学一年生になったばかりのいとこが悩んでいる。結果が揮わず、志望大学に入れなかった。大学の同窓生は皆バカに見える(私は全くそうは思わないし、いい大学だと思う)。高校時代の部活動のチームメイトは皆志望校に合格して、SNSを見れば皆最高の大学生活を送っているのに、自分は趣味もなく、リモートで講義を受け、サークル活動は禁止され、たった一人狭いワンルームyoutubeばかり見ている。ときどき、泣いて電話がかかってくるのだと叔父から連絡があった。

私は、10代のころ叔父にはものすごくお世話になった。音楽にのめりこみ「しっかり勉強してほしい」という親の願いを撥ね付け続けてどうしようもなくなっていた私に、叔父は音楽をたくさん教えてくれたし、私が拒否しない絶妙な加減で、勉強をすること、大学に進学することを促してくれた。父母より一世代若かった叔父は、私の救世主だった。

どうにかしてやりたいが親にはわかってやれないところが多い、きみになら話すかもしれない、なんとか話してやってくれないかと、叔父はずいぶんと疲れた声で言った。

数年ぶりにいとこに電話をかける。10歳も離れたいとこの姉ちゃんと話すのなんて嫌がられるのではないかと思っていたが、最近どう?悩んでるってちらっと聞いたけど…と切り出すと、受話器の向こうで不満があふれ出した。1時間と10分、止まることなく彼は話し続けた。コロナ渦で思い描いていた大学生活との乖離がそうさせたのだろう。丸みを帯びて優しい印象だった彼の声が、いつもよりずいぶんと尖って聞こえた。食事に行き顔を見ると、充実しておらず、彼自身もそう感じているのが手に取るように分かった。

彼に何かしてあげたいと思うけれど、おそらく難しいことだろう。私自身、最近になってやっとわかったことを、19歳の男の子に理解しろなんて無謀なことを言えない。周りを気にしないで自分のやるべきことをする、目線をもう少し先に向けて就活に向けて勉強する…そんなこときっと普通の19歳には無理だ。まだ大学入学一年目だ。強い意志がある人や、自分に自信が持てている大人にだって難しいことなのに。

せっかくの4年間を、少しでも楽しく過ごしてほしいと切に願う。そして、私と同じように鬱々とした感覚を持ちながら20代を過ごしてきた人って多いのかもしれない、と思う。もしそういう人がいたら教えてほしい。それをどうやって切り抜けてきたのか。

どんどん過ぎていく時間の体感速度は速くなる。

今年20歳になる彼の地獄はどんな地獄なのか想像する。彼の‟今の”時間が、少しでも心穏やかなものになるよう何かできることはないか、彼に伝わる言葉はないか、考えている。

 

 

 

 

 

 

Last Summer Whisper

 

先日、失恋をした。とても好きな人だった。だけどとても独りよがりで、はっきり言って虚しい恋だった。

連休の終わりに、もう会わないでいようと話した。その日は眠れなかった。最悪のスタートを切ったその週は、眠ろうと布団に入ると頭の奥の方が熱くなり、しょっぱい涙がスルスルと頬を落ちてくる。それが何日か続いた。今になって思えば、好きな人が自分を選んでくれなかったこと、それが一番に辛かった。なんてワガママで幼い好意だろう。

 


金曜の朝、耐えきれなくなって体調が悪いと午後から半休を取った。

スタバでサンドイッチとコーヒーを買って近くの海に行くと、いい風が吹いていて、サーファーたちが気持ちよさそうに波に乗っていた。

30分ぐらいボンヤリとそれを見ているうちに「今しかない」という気がしてきて、思い立ったと同時に不動産屋の扉を叩いた。そして、その日に一人暮らしを始めることを決めた。リセットして、一刻も早く新しい環境に身を置きたかったのだと思う。

 

 


契約を終えると、その足でよく行くアパレルショップに向かった。服ではなく、華奢なストラップが女性らしい、細いヒールのついたミュールと、ウォールカラーのチャンキーヒールの夏らしいサンダルを買った。

「珍しいですね、ヒール選ぶの。ヒール履くと印象全然変わるやん、絶対履いたほうがいいですよ」会計をしながら、いつもは話さない意識高い系の店員が話しかけてきた。

 

わたしは、自分の背が低いこともあって、元々ヒールのついた靴が大好きだった。履くと自分が魅力的に思えたし、少し強い女になったような気がするから。だけど、この1年は、ビーチサンダル、スニーカー、バレエシューズ、ブーツ、全てぺたんこの靴しか買わなかったし履かなかった。

わたしが好きな人は、わたしが10センチのヒールを履くとその背を追い越してしまう小柄な人だった。背の高い人が好きだったけど、身長なんか別にどうでもよかった。彼と居る時間が長くなるほどに、スニーカーやフラットシューズが好きになった。大好きだったヒールのついた靴は履かなくても平気になった。

だけど、今年の夏はたぶん、ヒールのついたサンダルも必要だと思った。

 

 

ぺたんこの靴を履いて歩いていた今年の冬、ウィルスに侵された武漢の人々が暗闇の中でライトを灯し合い、お互いに励まし合ってる動画をTwitterで他人事のように見ていた。

当然のことだけど日本にもそのウィルスは程なくして入ってきたし、たくさんの人たちを悲しませた。この国の誰もが愛する惜しい人も亡くした。

事態は今、緩やかに収束に向かっている。それに安心して、学習しないわたしたちはきっとまた同じことを繰り返す。終わりは1年後、もしかしたら2年後かもしれない。もっと長く続いていくのかもしれない。

でも、それでもきっと緩やかに終わっていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これだから大人は

 

仕事を辞めてから2週間休みがあった。暇すぎて家事以外なんにもすることがなく、Netflixで海外ドラマやアニメを観ながらルームランナーで走りまくり、3キロ痩せた。アウトドアな趣味とかある人が羨ましいって初めて思った。

仕事を辞めて休暇中だという話をすると、暇そうなのを察してか、会おうよと提案してくれた友人がいた。2人の子どもを育てる母である彼女は忙しく、1年ほど会っていなかった。「娘はじっとしてられないから旦那に見てもらうけど、息子は連れて行くね」とのことだった。

息子のユウセイくんは、しばらく見ないうちに少年になっていた。1歳で、まだ意思疎通のできない赤ちゃん状態の頃に初めて会ってから、4年ぶりの再会。友人が「ママのお友達のアキちゃんだよ」と言うと「アキちゃんこんにちは」と言いストンとわたしの隣に腰掛けた。すっかり少年になった彼は、軽快なトークラジオパーソナリティの如くその場を回した。そして、1時間半足らずの間にわたしに恋をしてくれたそうな。小さな唇で、流れるようにどんどんわたしの好きなところを挙げてくれたのだった。

「いいにおい」「かわいい」「あなたのことが好き」

思ったことをそのまま伝えることができるって、なんて尊いことだろう。

 

その日の晩、友人から着信があり「1度話したら納得して寝るから」と言うので、彼が夜寝る前にテレビ電話で話した。

「どこに住んでる?」「何のお仕事してる?」「次はアキちゃんにいつ会える?ママがいなくてもいいよ」

聞きたいこと、言いたいことを全部素直に言えるって気持ちがいい。「アキちゃんは大人でぼくは子どもだけど、アキちゃんのことが大好きになった」なんて言われて、ちょっと涙が出るかと思った。人生で1番キョーレツでうれしい告白。ありがとうユウセイくん。


素直でも赦される子どもが羨ましい。もうわたしは、いっぺん死んでも子どもに戻れるのかわからないぐらい大人になってしまった。周りにいる人間もみんな大人。

大人はめんどくさい。またこの人と会いたいなって思っても、この人のことが好きかもって思っても、恋人はいるの?って聞きたいなって思っても、大人だからブレーキをかけてしまう。わたしは特に「もうなるべく傷付きたくない」って思ってる、よりズルくて保身的な大人だから言えない。聞けないんだな。

 

こうして、「何にもしない」を実践した2週間の休みを終え、金曜からは働くことをまた始めます。

本当、大人はめんどくさいな。